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日生の漁業

記事ID:0010737 更新日:2019年12月9日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

 明治期、日生漁民は愛媛県四阪島から山口県三田尻、大分、福岡、徳島、和歌山、また伊勢湾まで出漁していました。日生漁業組合を結成し、魚市場をつくり、新時代に即応した漁業を展開していましたが、「漁業法」の施行により他県へ出漁することが制限され、魚も減少したことから、目を海外に向けるようになります。
 朝鮮へは明治20年に川崎甚平・甚九郎兄弟が、続いて戸長真殿伊治が120人を率いてと、出漁が盛んになります。絶影島、方魚津、浦項、筏橋、羅老島に根拠地をつくり、やがてその地へ定住しました。その中には魚を獲るだけではなく、加工をしたり、雑貨屋、漁具屋、洗濯屋、電気屋を営む人もいました。金谷一二・大介兄弟のように精米業から農場経営と、満州だけでも2000町歩の農地を持つまでになった人もいます。そして魚を日本へ運搬するための仲買い組合をつくったり、林兼(大洋漁業の前身)と共同で魚の運搬に従事する人々も現れました。朝鮮の人々と彼等は、「共に人間」と共存共栄をはかり、融和の中で発展していきました。

 

 太平洋戦争終結後、朝鮮からの引揚者は、501人という多数に上りましたが、混乱を極める中、日生引揚者の多くは家屋敷・家財道具等を使用人に与えました。このとき朝鮮の人々は「帰るな、帰るな」と涙を流して別れを惜しんだといいます。また戦後日本に引揚げた人々が、韓国を第二の故郷とし訪問団を組織して訪れた時、家族が再会したかのごとく抱きついて喜びました。このほかにも大連、台湾、マニラ、シンガポールなど100人以上の人々が海外に進出し、世界への夢を実現させてきました。
 戦後は海外漁場を失い、国内漁場の制約も厳しくなったことから、漁業協同組合や魚市場を立て直し、養殖漁業も手掛けるようになりました。漁協には婦人部・青年部を創設して後継者を育成し、「浜売り」では漁業者と消費者を直結しました。また共同出荷により大阪・東京の市場に進出し、新鮮で安価な日生の魚を提供するなど、常に他に先駆けて漁業の発展を図ってきました。養殖漁業は片岡松吉氏が提唱し、昭和32年の現寺湾でのハマチ養殖を先駆けとし、車エビ・ノリ・カキ等の養殖に積極的に取り組み、社会科の教科書にも取り上げられました。そしてサケ・マス漁の専用船を漁業組合が建造して北洋へ新漁場の開拓をするなど、日生の漁業は先人の英知を受け継ぎ、戦前の真殿伊治・吉形忠治、戦後は有吉敏治・岸本辰夫・坪本正一・本田和士氏等代々の指導者の素晴らしい先見性と指導力のもとにさらなる発展を遂げてきました。

 

 

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