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日生は瀬戸内海に面し、多くの島々から成り立っています。陥没して出来た、これらの島々を擁する海は、絶好の魚礁となり、リアス式の海岸は寒河・日生に天然の良港をもたらしました。そこに住む人々は縄文・弥生の昔から狩猟・漁労を生業としてきました。
平城京から出土した日生からの木簡も、塩を納めた荷札であろうと考えられてています。
また室町時代中頃には、日生からナマコを積んだ船が二艘兵庫の北関に寄った記録があり、近隣だけでなく京・大阪にまで魚を売るほど漁業の村として発展していたことがうかがえます。
江戸時代の初めには日生・寒河で約500石の米が穫れており、百姓と兼業で魚を獲っていたようです。当時は灘、虫明布浜から室津、小豆島中海までの日生近海が漁場でしたが、江戸末期には近海の魚が減少し、サワラを獲る流瀬船が阿波・讃岐・淡路・播磨まで300隻も出漁するようになりました。そして日生船の獲ったサワラは、大阪魚市場で「魚島サワラ」と呼ばれ、非常な高値で取引きされました。