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備前焼の生い立ち(5/7)

記事ID:0003570 更新日:2020年2月9日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

江戸時代の備前焼

衰退の一途

岡山は古くから主要産業としての窯業が早くから確立され、大きな力を持っていただけに、歴史的に焼物へのさまざまな政治介入が行われやすいという特性があったはずです。

また長い歴史の過程においては、浮沈があり、一定の独自の力を蓄えたり、保護される時代までの長い間、マクロ的にもミクロ的にも自由と介入の振幅がはっきりと残っています。

そのようなわけで、藩政時代を迎えた時、各藩新たに窯業としての産業を興そうとか、白紙に近いようなところから始めようとする他藩と比べやや異なるところがあるのは当然です。備前焼に、地殻変動が起こってきたのはこれまた無理もないことでした。

中世の商品流通の時代相と相応して、ついには市場を全国区的に制覇していった備前焼もこの時代の地方区的な藩単位の経済化の中では、これまでの擁した規模からいっても、過去の栄光という重荷からいっても、今度は守勢に回らざるを得なくなりました。

さらに追い打ちをかけるように、都市化する文化や好みもまた素朴な土味の焼物から、軽やかで美しいものを好む風潮のために、備前の前途には暗雲が立ちこめるようになりました。

反面その時代的振れの大きさと回数の多さこそが今日まで生き延びてきた備前焼の、いつかは「甦る」との確信的なしたたかさの源泉であったと思います。

窯業にかげりが見え始める江戸時代からは、過去の栄光が大きかっただけに、逆に遊びや好みではなく、藩主導でそれを何とか産業として支えようとする焦りのような動きが全面に出てきました。

所詮都市化と、平和時の優しさ好みの高進する時代の中では如何ともしがたいものでした。そこに精一杯の努力の跡は認めなければなりません。中には目を引くものも生まれはしましたが、そうした傾向の作品が、またそうした焦りの中で作られた作品では首座になることはなく、徒花的なものが多かったような気がします。

それはともかく江戸時代になると、日本陶芸の方向を二つの理由から決定的に変えました。一つは城下町という封建的都市とその幕藩体制の全国的広がりによるものでありましたが、もう一つは日本で初めての磁器の開始です。

都市化は女性的でやさしく、表面的に美しいものへと、焼物は言うに及ばず全文化を指向させました。

そして、慶長10(1605)年の有田泉山の陶石発見で、古代より憧れていた玉のような磁器が日本でも生まれるようになったことは、焼物の世界の変化に拍車をかけました。

また巨大さを売りものにして、貯水、醸造、貯米その他の用途の容器として独占的に市場を支配していた備前焼の土台部分大甕は、ヤリガンナから台カンナへの全国的普及で、軽くて、巨大でどこの藩でもできる木製の桶、樽が全国津々浦々まで普及し始めたことによって、無用の長物として締め出されてゆきました。途端に備前焼は苦戦を強いられ、備前焼の天下は落日に向けて音を立てて再び崩れ始めました。器種を問わず備前焼の表情の上にはっきりと自信喪失という影が差していくのです。

大甕などもひと回り小さくなり、形の上でも、威風堂々とした姿は失せ、ガックリ肩を落し、ずん胴スタイルになってしまいました。

私はこの変化に注目し、博物館にいたころはことあるたびに入館者にこの大甕と時代的変遷、また大甕の衰退と樽の「元気」が反比例する説を力説していました。今ではもちろん受け入れられるようになってきました。

それがまた時代と勢いの関係であり、モノは良くも悪くも時代を正直に映す鏡であるという事でもあります。モノを見るとは、モノが時代的変化を衣装としてまとっていて、その姿を捉えるということでもあることを忘れてはなりません。

江戸時代に備前焼の力が、藩内に閉じこめられる傾向の中で低下したとはいえ、藩主は、備前焼の支配と、その起死回生策をあれこれ試みたのです。

最初の反応は早く、江戸時代に入って間もなくそれは始まりました。元和2(1616)年池田忠雄が岡山藩主となり、この頃岡山城下片上町に伊部座を認可しました。