ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 文化スポーツ部 > 生涯学習課(公民館) > e-Bizen Museum <戦国武将浦上氏ゆかりの城>

本文

e-Bizen Museum <戦国武将浦上氏ゆかりの城>

記事ID:0000558 更新日:2023年4月1日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

戦国武将浦上氏ゆかりの城

片上公民館

年表

西暦(和 浦上氏に関するできごと 日本のできごと
1350
(観応元年)
北朝側(室町幕府)に属した赤松氏が備前の守護となり、重臣浦上宗隆を備前守護代に任じ三石城に派遣する。  
1392
(明徳3年)
守護大名山名氏没落。
赤松義則、播磨・備前・美作の守護となる。
60年続いた南北朝の争乱が終結
1441
(嘉吉元年)
赤松満祐が将軍足利義教を殺害する。(嘉吉の乱)
幕府が山名教清に美作、教之に備前、持豊に播磨の各守護職を与える。
 
1458
(長禄2年)
赤松氏の遺臣が大和吉野から神璽を奪還、その功により幕府は赤松氏を復興させる。  
1467
(応仁元年)
赤松政則の軍が美作に入り、美作守護山名教清の軍と戦い、美作を支配下に収める。このころ、幕府が赤松政則を美作・備前・播磨の守護とする。
三石城に浦上則宗を備前守護代として置く。
応仁の乱が起こる。
下克上のはじまり
1468
(応仁2年)
赤松政則侍所所司に任ぜられる。
浦上則宗所司代任ぜられる。
 
1477
(文明9年)
  応仁の乱収まる
1483
(文明15年)
1484
(文明16年)
山名勢が備前に侵入し、松田元成らとともに赤松氏の守護代浦上氏を福岡(長船町)に攻め、松田元成は敗死。このころ山名氏が美作・備前・備中をほぼ制圧。  
1488
(長享2年)
赤松政則が山名政豊を撃退し、播磨・備中・美作を回復する。  
1496
(明応5年)
赤松政則病死。家督を義村が継ぐ。
浦上則宗の勢力拡大する。
  
1497
(明応6年)
この頃、浦上宗助が備前国守護代だった可能性あり。
金川城主松田元勝と富山城をめぐって争い、窮地に陥った宗助を宇喜多能家が奇計を策して救った。
 
1502
(文亀2年)
浦上則宗病没する。村宗家督を相続する。赤松義村をよく補佐し、備前・美作・播磨を実質的に支配する。
このころ宇喜多能家が松田元勝と備前矢津・牧石で戦う。
 
1517
(永正14年)
尼子経久が備中の新見国経と結んで美作へ出兵する。  
1518
(永正15年)
浦上村宗と赤松義村が不和となり、村宗は居城の三石城を三度も攻撃されたが、宇喜多能家の活躍で撃退した。  
1521
(大永元年)
浦上村宗、赤松義村を追いつめ家督を赤松政村に譲らせ、その幽閉し、暗殺する。ここに家臣浦上氏が主君赤松氏を凌ぐ下克上が実現した。  
1531
(享禄4年)
浦上村宗摂津にて戦死。
村宗の嫡男政宗が家督相続するが、居城を弟の宗景と一緒に室津の室山城に移す。三石城には守兵を置く。
 
1532
(天文元年)
政宗、宗景兄弟不和なり、宗景、政宗ら独立して天神山(佐伯町)へ城を築く。
この頃より、政宗、赤松氏から自立し、備前国南部と西部を支配していった。
この頃、浦上国秀が富田松山城の城主だったようだ。
 
1533
(天文2年)
政宗、宗景討伐のため室津から出兵し三石城、富田松山城を攻略、両城に手兵を置く。しかし、この兄弟喧嘩は20日ばかりで終わり、勝)負は決まらなかった。
この頃より、政宗の備前国での勢力は徐々に後退しはじめる。
 
1534
(天文3年)
備前守護代浦上政宗の家臣島村盛実が宇喜多能家を備前砥石城で殺害。  
1543
(天文12年)
このころ備前の浦上宗景が播磨の赤松晴政の諸城を落とす。宇喜多直家が宗景に従う。  ポルトガル船が種子島に鉄砲を伝える。
1549
(天文18年)
  ザビエル鹿児島に上陸しキリスト教を伝える。
1551
(天文20年)
政宗、出雲国の尼子晴久と組み、宗景を攻撃  
1552
(天文21年)
尼子晴久が因幡・伯耆・出雲・美作・備前・備中・備後の守護に任じられる。  
1560
(永禄3年)
  織田信長が尾張桶狭間で今川義元を破る。
1562
(永禄5年)
足利義輝が毛利隆元を備中・備後両国の守護に任命する。このころから毛利勢が美作に侵入する。  
1564
(永禄7年)
浦上政宗父子、龍野城主赤松政秀に殺害される。  
1567
(永禄10年)
宇喜多直家の兵が備前明禅寺城を包囲。備中の三村元親が直家と戦い敗れる。(明禅寺合戦)  
1568
(永禄11年)
宇喜多直家が備前金川城主松田元輝を滅ぼす。 織田信長が足利義昭を奉じ入京する。
1570
(元亀元年)
この頃、宗景が備前・美作の大半を手中に収める。  

1573
(天正元年)

備前沼城の宇喜多直家が備前岡山城に拠る。 室町幕府滅ぶ。
1574
(天正2年)
宗景その家臣宇喜多直家が断絶。宗景は、織田信長と手を組み、直家は、毛利氏と手を結ぶ。  
1575
(天正3年)
(現在は、この年天神山城が落城した説が有力である。)  
1576
(天正4年)
  信長、安土城を築く。
1577
(天正5年)
富田松山城、浦上景行の折、落城す。宇喜多直家が浦上宗景を備前天神山に攻め滅ぼす。

羽柴秀吉中国征討のため京を出発する。

1578
(天正6年)
毛利・宇喜多両軍が播磨上月城を破る。尼子勝久が自害する。  
1579
(天正7年)
宇喜多直家が羽柴秀吉と講和し美作三星城を攻略。宇喜多直家が織田信長に降伏する。  
1581
(天正9)
宇喜多直家が没する。  
1582
(天正10年)
  羽柴秀吉が備中高松城を水攻め。
あとがき 

 この冊子は、平成14年度備前市教育委員会が 行った『世代ふれあい交流事業』で、地域が育んだ人物、歴史、文化について、備前市片上地区の子どもたちやお年寄りのみなさんが、講師 ”浦上良隆(うらかみ よしたか)” 氏編集の資料をもとに、共同で学習した内容をまとめたものです。
 
 この冊子が、これから備前市内はもちろん、岡山県内の小・中学校で勉強するみなさんの 『ふるさと学習』 の良き参考書になれば、こんなにうれしいことはありません。
 
 なお、この冊子を発行するにあたり、下記の著書・文献を参考にさせていただき、また、多くの人たちのご指導・ご協力をいただきましたことを心よりお礼申し上げます。

※参考著書・文献

  • 「備前軍記」
  • 「天神山記)」
  • 「美作太平記」
  • 「和気郡史)」
  • 山陽新聞社編「学習漫画)岡山の歴史8」 戦乱の日々 戦国時代
  • 平成14年 岡山県)博物館 夏季展特別陳列  戦国武将 浦上氏」参考資料
  • 西川晃男著「三石城の栞」
  • 天神山保勝会編「備前国 天神山城」