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e-Bizen Museum <戦国武将浦上氏ゆかりの城>

記事ID:0000555 更新日:2022年3月1日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

戦国武将浦上氏ゆかりの城

片上公民館

浦上氏ゆかりの城

三石城
  • 所在地 備前市三石
  • 形  式 変形連郭式山城
  • 遺  構 郭、石垣、土塁、堀切、井戸、池、虎口

三石城跡の画像

 標高291mの天王山の山頂近くに山石を積み上げて石垣をつくり築城されていた。

 縄張りは、山頂に円形をした本丸に、二の丸、三の丸とお玉杓子の尾状に南に展開している変形連郭式の山城です。城の遺構では、大手門は大手道から三の丸へ続き、また大手門から堀底道を北に進むと、ちょうど本丸下の両側には、至るところに石垣の残石(軍用石)が見られる。堀切は、岩盤を断ち切ったようなもので高さもあり、北の出丸とともに、三石城の弱点とも考えられている北の尾根筋への防御線を形成している。

三石城絵図面の画像
三石城絵図面

城の沿革

 正慶(しょうけい)2年(1333)に三石の地頭伊東大和二郎(いとう やまと じろう)によって築かれ、鎌倉末期から南北朝にかけての戦乱でしばしば攻城戦(こうじょうせん)が行われた城でもある。

 播州白旗城(ばんしゅうしろはたじょう)の赤松氏が備前守護職に任ぜられると、浦上宗隆が守護代で三石城主となる。後に浦上氏は片上湾を擁する富田松山城を築き、日本一の窯業(ようぎょおう)生産地(大甕・摺鉢などの生活用品)の積み出し港を押さえ、西播磨では瀬戸内海海運の要の室津をも支配した。

 嘉吉元年(1441)に主家赤松満祐(あかまつ みつすけ)が将軍義教(よしのり)を誘殺(ゆうさつ)した“嘉吉の乱”が起こり、結果守護職は、山名氏に代わった。

 応仁元年(1467)赤松政が守護職に返り咲くと、三石城の浦上則宗(むらかみ のりむね)が守護代に復帰した。これらの変を通じて浦上氏の力は主家を凌ぐようになり、室町第(幕府)造営料を浦上則宗が負担するまでになった。

 文明(ぶんめい)16年(ねん)(1484)正月、山名氏が松田元成(まつだ もとなり)らの軍勢とともに三石領に乱入したが、これを浦上基景(うらかみ もとかげ)・則国(のりくに)が撃破。この後、浦上氏は赤松氏から独立の方向に動いた。

 則宗(のりむね)の孫村宗の代になると、主家赤松義村と対立、永正(えいしょう)15年(1518)9月、義村は村宗の立てこもる三石城を攻めるが大敗した。大永(たいえい)元年(1521)、村宗は義)村を室山城(むろやまじょう)に幽閉して暗殺し、戦国大名浦上村宗の登場となった。

 村宗の死後、村宗の子、政宗・宗景は三石城を去って、室津城を居城として、三石城には守兵(しゅへい)を置いた。

 その後、兄弟の間に不和を生じ、宗景は天神山(和気郡佐伯町)へ城を築き自立した。その時、三石城は宗景の勢力下となり宗景の守兵が派遣されていたようである。

 ところが、天正(てんしょう)5年(1577)宗景の家臣 宇喜田直家に攻められ天神山城が落城すると 築城以来250年近く山陽の要衝であり、また政治の中心でもあった三石城)も歴史の表舞台から消える運命となった。