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e-Bizen Museum <戦国武将浦上氏ゆかりの城>

記事ID:0000554 更新日:2023年4月1日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

戦国武将浦上氏ゆかりの城

片上公民館

浦上氏ゆかりの城

その他の城

八木山城
 備前市八木山にあった。
 宗景の家臣木村三郎兵衛居城


 備前市坂根(さかね)の東の山尾根にあった。明石右京(あかし うきょう)の居城。宇喜多直家の家臣が交替で守ったとも伝えられている。

王山

 備前市鶴海(つるみ)の地にあったされる城。備前の南から西の勢力に備えていたと考えられる。

 浦上氏の家臣白髭入道(しらひげにゅうどう)がいて、富田松山城が宇喜多氏に攻められたとき、加勢に出兵したが間に合わず、富田松山城は落城したなどの逸話も残されているが、定かではない。


備前市福田にある丸山古墳の上にあった。

 浦上氏の家臣鷹取彈正能佐(たかとり だんじょう よしすけ)の居城であったことは、伊部にある長法寺に丸山城主としての能佐の寄進状が所蔵されていることから証明されるが、主従関係や継承問題に疑問点が多く、詳しいことは定かではない。


 備前市伊部の西北の山中にあった。
 福岡の合戦の頃、西方の防備のために築かれたものと考えられている。

 また、宗景の時代には、宗景の家臣日笠源太(ひかさ げんた)が守っていたが、宗景と宇喜多直家が敵対してからは、直家の家臣花房助兵衛(はなふさ すけひょうえ)が攻撃し落城し、源太も討ち死にした。
 以後、天神山が落城するまで宇喜多の城番が居城し、伊部と片上の境の葛坂でたびたび小競り合いをしたようだ。

たい山
 備前市の250号線沿いの伊部と浦伊部の境の山上にあった。遺構は残っていない。南は片上湾、南北双方に山陽道が通じ、片上・三石への交通を押さえるには最適な所であった。城主は、安達修理助(あだち しゅうりのすけ)と伝えられている。修理助の邸跡や墓が伊部南に残ている。

 この他にも 鬼が城(おにがじょう)・茶磨山城(ちゃまやまじょう)・狐塚城(きつねづかじょう)・法悦城(ほうえつじょう)・古城山(こじょうざん)などどちらかというと、城というよりは、砦や塁に属するような城跡がたくさん点在する。それだけ、備前の一帯は戦略的に重要な場所が多かったといえる。