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e-Bizen Museum <戦国武将浦上氏ゆかりの城>
戦国武将浦上氏ゆかりの城(せんごくぶしょううらかみし)
片上公民館
浦上氏の主要人物
【浦上則宗(うらかみ のりむね)】 永享(えいきょう)元年(1429)~文亀(ぶんき)2年(1502)
三石(みついし)城主。嘉吉(かきつ)の乱(1441)で没落した主家赤松氏の再興に尽力した。
主君赤松政則(あかまつまさのり)が、備前・美作・播磨の守護となった時には、政則のもとで領国(りょうごく)の支配にあたった。また政則が侍所(さむらいどころ)の長官に任じられると、所司代(しょしだい)として在京し、これを補佐した。
文明(ぶんめい)15年(1483)、山名氏(やまなし)が播磨に進攻し、これに応じて備前では、松田氏が則宗の弟則国(のりくに)が守る福岡城(邑久郡長船町)を攻撃した。則宗は、赤松政則に福岡援軍を依頼したが、政則は応じず、播但(ばんたん)国境で山名方と戦い敗北した。このことが原因で、両者の中は悪化したが、後に和解し、協力して文明(ぶんめい)19年(1487)には、山名氏の勢力を但馬(たじま)に排除した。
明応(めいおう)5年(1496)に赤松政則が病死し、義村が家督を継ぐと、則宗はさらにその力を拡大した。
【浦上宗助(うらかみ むねすけ)】 生没年未詳
三石城主。『備前軍記(びぜんぐんき)』によると、浦上則宗の子とされているが、弘法寺(こうぼうじ)所蔵の『浦上氏系図』によれば、則宗の兄則永(のりなが)の子とされている。
宗助は、延徳(えんとく)4年(1492)西大寺(さいだいじ)に造営料として寄進された市場敷(いちばしき)への代官の違乱(いらん)を禁止したり、明応(めいおう)6年(1497)に起こった備前国金山寺(きんざんじ)の境界相論(きょうかいそうろん)に対して、赤松氏奉行人(ぶぎょうにん)である叔父浦上則宗らが下した裁許を実際に遵行(じゅんぎょう)するなど備前国守護代としての地位にあったものと考えられる。
『備前軍記』には、浦上宗助が明応(めいおう)6年に金川(かながわ)城主松田元勝(まつだ もとかつ)と富山城(とみやまじょう)をめぐり、激しく争い、松田側に糧道(りょうどう)を絶たれた宗助が、竜ノ口城(たつのくちじょう)に包囲されたところを宇喜多能家(うきた よしいえ)が奇計をもって救出した様子が描かれている。
【浦上村宗(うらかみ むらむね)】 生年未詳~享禄(きょうろく)4年(1531)
浦上宗助の子。文亀2年(1502)浦上則宗の死により浦上家の家督を相続した。主君赤松義村を補佐し、備前・美作・播磨を実質的に支配するが、永正(えいしょう)15年(1518)頃から義村との不和が表面化した。この年から、翌年にかけて義村は3度にわたり村宗の居城三石城を攻撃したが、村宗は家臣宇喜多能家の活躍などによりこれを撃退した。その後村宗は、播磨国に侵攻し、義村を追い詰め、家督を子政村(まさむら)に譲らせた。引退後も村宗に敵対する義村を室津(むろつ)に幽閉した後、暗殺した。
浦上村宗の塚(備前市木谷)
赤松政村は、名目的には、備前・美作・播磨の守護の地にあったが、実質的には浦上氏が支配権を握ることとなった。その後、村宗は中央での管領(かんれい)細川家の内紛にかかわり、軍勢を率いて摂津国(せっつのくに)に出兵したが、阿波(あわ)三好軍(みよしぐん)及び村宗を父の仇と狙う赤松政村の軍勢に包囲され、天王寺の戦(てんのうじたたか)いで討ち死にした。
【浦上政宗(うらかみ まさむね)】 生年未詳~永禄(えいろく)7年(1564)
父浦上村宗の戦死後、弟宗景(むねかげ)とともに、備前国三石城(備前市)から播磨国室山城(むろやまじょう)(兵庫県御津町)へ移る。その後兄弟不和となり、宗景は備前国東部の武将を配下として備前国天神山城(佐伯町)に本拠を構えた。不和の原因については、村宗死後、守護赤松政村に屈服し臣従した政宗に対し、不満をもった宗景(むねかげ)と備前国東部の武将が自立を図ったとの説がある。
当初、赤松政村(晴政)に臣従していた政宗だが、天文(てんぶん)年間(1532~1555)後半までには赤松晴政から自立し、岡山竜ノ口の税所(さっしょ)氏・金川(かながわ)の松田氏などを通じて、備前国南部と西部を支配していたと考えられる。
一方、不和になった弟宗景(むねかげ)は、戦闘を繰り広げ、天文(てんぶん)20年(1551)頃には、出雲の尼子晴久(あまこ はるひさ)と提携して宗景を攻撃した。宗景の家臣宇喜多直家の沼城(岡山市)も、この頃攻撃されているようである。
しかし、備前国内の政宗方の勢力は徐々に後退し、かわって宇喜多直家の勢力が伸張していった。そして、永禄(えいろく)7年(1564)1月、子清宗(きよむね)の婚礼の夜、赤松氏の庶流である播磨国龍野城主赤松政秀『備前軍記』は赤松晴政(はるまさ)に急襲されて父子ともに殺害されたとされる。
【浦上宗景(うらかみ むねかげ)】 生没年未詳
父浦上村宗の戦死後、兄政宗と不和になり、備前国天神山城を拠点とし、大田原長時(おおたわら ながとき)や日笠頼房(ひかさ よりふさ)ら備前国東部の武将を配下とした。兄政宗をはじめ、尼子氏らと戦繰り広げ、元亀年間(1570~1573)頃には、備前・美作の大半をその手中に収めたと考えられる。
毛利の勢力が中国地方東部へ及んだため、宗景(むねかげ)は天正(てんしょう)元年(1573)上京し、織田信長から備前・美作・播磨を安堵された。しかし、天正2年(1574)3月には、家臣の宇喜多直家が宗景と断絶し毛利氏結んだ。このため、宗景は織田信長をはじめ、三村元親(みむら もとちか)(備中)・三浦貞広(みうら さだひろひろ)(美作)・尼子勝久(あまこ かつひさ)・村上武吉(むらかみ たけよし)(村上水軍)・大友宗麟(おおとも そうりん)(豊後)らと連携し、毛利氏・宇喜多直家との間で戦闘を繰り広げた。
しかし、宇喜多直家に天神山城を攻撃され落城した。天神山城の落城時期については、『備前軍記』では天正5年(1577)2月、『天神山記(てんじんやまき)』では同年8月とするが、現在は天正3年9月説が有力視されている。
天神山落城後の宗景は、播磨国内で織田信長の武将として毛利氏と戦い、その後、黒田孝高(くろだ よしたか)とともに筑前(ちくぜん)福岡に移ったとも伝られる。
【浦上国秀(うらかみ くにひで)】 未詳
富田松山城主。天文年間(1532~1554)の頃。
浦上村宗が三石城主であった頃の永正(えいしょう)年間(1504~1520)、すでに片上の地も浦上の勢範囲であったが、だれが城主であったか明らかではない。断片的な記録によって、国秀と景行の名が判るだけで、系図的にどのような続柄かを確認できるものがない。
しかし『和気郡史』では、国秀は、宗景が兄政宗から独立して天神山に城を築いたとき、自身も富田松山城に来て、増改築して本格的な城にしたとされている。また、片上地が政治的に重要なところであったため、浦上の主流が守っていた可能性が強いなどを考慮すると、宗景次ぐ三男とみるのが自然のようだ。国秀に関する証として、西大寺に国秀の下知状が残されている。
富田松山城平面図
(葛原克人氏調査「日本城廓体系」)