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e-Bizen Museum <戦国武将浦上氏ゆかりの城>
戦国武将浦上氏ゆかりの城
片上公民館
はじめに
皆さんは、遠足とかハイキングで○○城跡(しろあと)とか○○城山(しろやま)と呼ばれているところへ出掛けたことが何度かあると思いますが、この備前地方には城跡がいくつも残っています。
これらは、戦国時代に築かれたものが多く、城というよりは戦用の砦に近いものでした。また、岡山では、戦国武将といえば、“宇喜多氏(うきたし)”が知られていますが、宇喜多氏が台頭してくる以前、備前・美作(みまさか)地方を治めていたのは、“浦上氏”で50年くらい勢力を保っていました。
備前市内には、特に浦上氏ゆかりの城跡や墓が多く残されています。これを機に片上(かたかみ)にもゆかりのある浦上氏とその居城について学習しましょう。
<戦国時代>
室町(むろまち)時代の後期、応仁の乱(おうにんのらん)(1467年)の始まった頃から織田信長(おだのぶなが)が天下を統一するまでの約百年の間、室町幕府の統括力が衰え、主従関係が崩れ、地方の在地有力領主である国人(こくじん)たちが、武力や策略をもって領国(りょうごく)の支配権を相争い、その領地を拡大していた時代のこと。
この頃、主人の守護大名(しゅごだいみょう)を追いやって、新しく守護大名になった大名を戦国大名(せんごくだいみょう)という。
<浦上氏>
浦上氏は、播磨国揖保郡浦上荘(はりまのくに いぼぐん うらかみのしょう)(兵庫県龍野市(たつのし))を名字とする播磨の国人だった。中央勢力とのつながりのある守護大名“赤松氏(あかまつし)”と姻戚関係にあり、赤松氏の守護代(しゅごだい)となって力を蓄えて、ついには、主人の赤松氏を倒すが、自らも親・兄弟と争い、やがて家臣であった“宇喜多氏”に滅ぼされた。
今日でこそ、情報が公開され正しい記録が残されつつありますが、古代よりその時代に力を得た者により、ことの真偽は勝者に都合のいいように記録されたり、何十年もたってから、言い伝えによって記録されるということがしばしばありました。こんな状態でしたから、滅んだ者の確かな記録というものはほとんど残っていません。そこでわずかに残されている『備前軍記(びぜんぐんき)』『天神山記(てんじんやまき)』『美作太平記(みまさかたいへいき)』『和気郡史(わけぐんし)』などを参考に実際の城跡調査などから推測されることがらについて紹介しましょう。
浦上家紋章
檜扇