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e-Bizen Museum <柴田錬三郎略伝2>

記事ID:0000538 更新日:2023年4月1日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

柴田錬三郎略伝

東鶴山公民館

柴田錬三郎(しばた れんざぶろう)

大正6年(1917)~昭和53年(1978)

柴田練三郎写真

 昭和31年は日本の大衆小説の主役である剣豪の系譜に突然変異のおこった歴史的な年である。宮本武蔵、荒木又右衛門、千葉周作などのかげがうすくなり、突如として奇想天外な新人英雄があらわれて、大衆の心をうばってしまった。すなわち柴田錬三郎の「眠四郎無頼控」の登場である。

 眠狂四郎の出現は「大菩薩峠」の机龍之介(つくえ りゅうのすけ)以来のニヒリスト剣士の流れをくむものであったが、「机」が小学生時代から万人に親しい家具であることからヒントを得て、同じく誰でもが毎日経験しないではすまぬ「眠」という姓にして、覚えやすくしたところにサービス精神があると、作者シバレン氏は言っている。

 狂四郎の性格は、それまでの時代物の主人公(特に吉川英治の宮本武蔵)のまるっきり逆手をとったもので、反精神主義、反正義派、愛刀岡崎を五郎正宗がひとたび鞘走れば、破邪の剣ではなく、残虐無道の凶器となる。

 氏素姓にいたってはさらに異端で、転びバテレンと大目付の娘の間に生まれた混血児という設定であり、催眠術応用の円月殺法(えんげつさっぽう)で人を斬りまくる。

 ――それは占領下日本の抑圧状況に対する自虐のロマン派的(シバレン氏は佐藤春夫門下である)展開の一変態であるかも知れない。そのせいかどうか、眠狂四郎は市川雷蔵(いちかわ らいぞう)主演で映画化され、いっそう広い大衆に永く愛されるアイドルとなって、その人気は昔の大河内伝次郎(おおこうち でんじろう)の丹下左膳(たんげ さぜん)をしのぐほどであった。

 そのハードボイルドな英雄を誕生させた柴田錬三郎は、邑久郡鶴山村(今は備前市)の生まれ、本姓は斎藤。父は鏑木清方(かぶらぎ きよかた)と同門の日本画家だったが早世、兄2人と共に母に育てられた。

 なかなかのいたずら坊主だったが、友達仲間の前でたちまち一篇の冒険物語をつくって語って聞かせるような才能があったという。

 鶴山小学校(今は東鶴山小)、岡山二中(今は操山高校)を経て慶応大学支那文学科に入り、予科3年の時、処女作「十円紙幣」を「三田文学」に発表した。つづいて何篇かの習作を同誌に書くが、一方、魯迅に傾倒し「魯迅幼年記(ろうじんようねんき)」も載せている。

 その頃、キリシタンにも興味を持ち、またリラダン、メリメ、ワイルドなど異端作家も耽読したという。

 昭和15年卒業して日本出版協会に勤めていたが、17年衛生兵として召集され、南方へ派遣される途上、台湾南方のバシー海峡を航行中敵襲にあって乗船は撃沈、7時間漂流ののち奇跡的に救われるという波乱も体験している。

 戦後は日本読書新聞の再刊に努力、のち書評編集長、24年文筆生活に入りカストリ雑誌の読み物や少年少女向け読み物を濫作して、師の佐藤春夫に叱られてから気をとりなおし、26年「デス・マスク」を「三田文学」6月号に書いたのが芥川賞)候補となり、さらに「イエスの裔(すえ)」を12月号に発表、それが翌年直木賞を受賞して、文壇に登場した。

 そして受賞第一作に「真説河内山宗俊(こうやま そうしゅん)」を書いたのを転機として時代小説作家になって行く。

 以後精力的な執筆をつづけ、直木賞選考委員もつとめて来たが、赤穂浪士に新解釈をくわえた「復讐四十七士」執筆中、肺性心で急死。「柴田錬三郎時代小説全集」全26巻がある。

額装

 今、母校東鶴山小の校長室に原稿用紙にペン書きの手紙が額装して掲げられている。

 「幼き諸君へ」と同窓の後輩あてに「自分は本を読むのが好きで小説家になった。自分の好きなことを早くみつけ、一生懸命にやってほしい。けんかが好きならボクサーに、機械いじりが好きなら工場で働く。無理に大学へ行く必要はない云々」。

 昭和26年2月19日の消印だから、佐藤春夫のお小言に発奮して「デス・マスク」執筆に打ち込んでいた時期に当たるようだ。

(岡山文庫『岡山の文学アルバム』より)