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e-Bizen Museum <佐藤陶崖7>

記事ID:0000531 更新日:2019年12月9日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

佐藤陶崖物語

伊部公民館

村の再興に尽くす


 陶崖は、常に村のために尽力していましたが、気性が激しく自分の考えを曲ることはしなかったようです。
 天保元(1830)年、伊部村の南に位置し、浦伊部村(うらいんべむら)との境にある山林の下山を、大庄屋(おおじょうや)が浦伊部村所有に変えてしまい、陶崖は伊部村を代表して抗議し、結果的には所有権を伊部村に取り戻しましたが、大庄屋を怒らせてしまい、12月に苗字を取り上げられ、郡払(ぐんばら)い(和気郡外へ追放)という処分を受けてしまいました。
 そこで、伊部に住んでいられなくなった陶崖は、息子の陶亭に留守をまかせ、上道郡原村河本(今の岡山市西大寺河本)の江戸屋戸川家の招きで、妻の絲とともにそちらへ転居しました。

陶崖が描いた絵の画像

 河本に移ってからの陶崖は、絵の勉強をしたり、医師としての診断や投薬の記録を『配剤録(はいざいろく)』として遺したりしました。相変わらず旅もしていたようで、時々は伊部に滞在していたようなので、追放はそれほど厳しいものではなかったようです。 

 天保3(1832)年4月、妻の絲が亡くなりました。33歳でした。 

 天保7(1836)年1月、陶崖が50歳のときに、約5年間に及んだ追放処分を解かれて伊部に帰っています。 

 天保10(1839)年3月、陶崖は大阪に滞在中でしたが、藩の命令により伊部に呼び戻され、名主役(大庄屋の下で村内の民政をつかさどる役人)に任命されました。

村の再興に尽くす(さいこう)(つ)の画像2

 当時、物価は高くなり、それに比べて焼き物の値段は上がらず、備前焼を売って生活する家は借金が増えて生活が苦しくなっていました。なおかつ、隣の邑久郡虫明(おくぐ むしあげ)で備前焼に似た虫明焼が生産され、いっそう伊部の備前焼に携わる人々の生活を圧迫していました。

 それほど伊部村の経済が苦しい時に、陶崖は芸術や医学の生活から一転して、名主の仕事をしなければならなくなりました。

 早速、村を再興する方法として、小窯2基の新築願いと、その費用を借りることを藩に請願し、翌年藩の許可を得て榧原山麓(かやはらさんろく)(南大窯の西)に小窯(融通窯)を築きました。
 

 天保12(1841)年1月、陶崖の母李甫が亡くなりました。81歳でした。
 

 天保13(1842)年6月には、虫明焼が備前焼に似ているため、差し止めの請願を藩庁に提出しました。10月にも陶崖が書き出し人となって43名が連名で、虫明焼差し止めを請願し、その結果、陶崖たちの主張は通り、虫明焼は廃窯となりました。


 天保14(1843)年、陶崖は春先に病気になり、最後の著作である『陶器(とうき)忌瓶小釜焼惑問(わくもん)』を3月20日に書き上げて、4月10日に亡くなりました。57歳でした。 

 交流のあった漢詩人の安井槐堂やすい かいどう)は、墓碑銘に「山に非ずして是れ人」と記して、陶崖のスケールの大きさを讃えています。