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e-Bizen Museum <閑谷学校ゆかりの人々14>
閑谷学校ゆかりの人々
伊里公民館
* 三木露風(みき ろふう)(1889~1964)
1.生い立ち
童謡「夕焼け、こ焼けの赤とんぼ…」のうたで有名な三木露風も閑谷学校に学んだ一人である。露風は今の兵庫県竜野(たつの)市に生まれ、本名は「三木操(みさお)」。少年の頃から文才があり、小学校3年のとき郡内連合綴り方(つづりかた)審査会で第一等賞、さらに新聞社の短歌にも一等入賞をしている。
竜野中学校に進学してからも、ますます文筆活動も活発となり、各紙に詩歌・俳句・漢詩・散文・文芸時評などの投稿をして好評を得たという。首席で進学した「操」も文学に熱中のあまり成績も下がり、ついに竜野中学校を2年の中途で退学した。
2.閑谷黌(しずたにこう)へ転入学
明治37年竜野中学校を退学した操は、同年11月4日付で閑谷黌に転入学した。
閑谷黌の神戸(かんべ)教師は、旧竜野藩士で操の父とは幼なじみであったから、身元保証人となって入学して寄宿舎に入った。一級下に竜野で文学活動をしていた旧竜野藩主の子息、脇坂祐之進(わきさかゆうのしん)がいた。操は、閑谷でも新体詩研究会をつくって、校友会雑誌「閑谷」紙上でも目覚しい活躍をした。
3.不言園に住む
明治38年1月寄宿舎を出て、閑谷地区の中島氏宅に下宿した。そして同家の梨畑の中にある小屋を借りて住むようになった。その小屋の室内には、西校長の「不言園」の額が掲げられていた。見晴らしのよい場所で、操の創作活動はさらに活発になったといわれる。
4.閑谷黌退学
不言園で創作活動に耽っていた操は、文学で自立しようと考え、退学を決意した。
そして「予が吉備国(きびこく)閑谷を去る記念の集」として詩歌集「夏姫」を出版した。操16歳の夏であった。
明治22年(1889) | 0歳 | 6月23日出生 父 節太郎 母 かた の長男。 |
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同 28年(1895) | 6歳 | 母 かた離婚し弟を連れて鳥取に帰る。 祖父制(すさむ)に養育される。 |
同 35年(1901) | 12歳 | 句作を始め、雑誌「少園」をつくる。 |
同 37年(1903) | 15歳 | 竜野中学から閑谷黌に転学して創作にふける。 |
同 38年(1904) | 16歳 | 詩歌集「夏姫」を出版して閑谷黌を去り、上京する。 |
同 42年(1909) | 20歳 |
早稲田大学、慶応義塾に学ぶ。 |
大正 2年(1913) | 24歳 | 相ついで詩集を刊行し、北原白秋と並んで詩壇の双壁といわれる。 |
同 9年(1920) | 31歳 | 北海道トラピスト修道院の講師となり、4年間勤める。 このころ幼児のころの思い出の詩「赤とんぼ」を作る。 |
同 11年(1922) | 33歳 | 露風夫妻とも受洗。露風はパウロ、夫人はモニカ。 |
昭和 2年(1927) | 39歳 | ローマ教皇より、勲章とホーリーナイトの称号を受ける。 |
同 15年(1940) | 52歳 | 竜野市に「ふるさと」の詩碑が建立される。 |
同 37年(1962) | 74歳 | 竜野市名誉市民、翌年紫綬褒章を受賞。 |
同 39年(1964) | 76歳 | 12月21日交通事故に遭い、同29日死去 |