ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 社会教育部 > 公民館活動課 > e-Bizen Museum <閑谷学校ゆかりの人々14>

本文

e-Bizen Museum <閑谷学校ゆかりの人々14>

記事ID:0000511 更新日:2022年3月1日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

閑谷学校ゆかりの人々

伊里公民館


* 三木露風(みき ろふう)(1889~1964)

1.生い立ち

 童謡「夕焼け、こ焼けの赤とんぼ…」のうたで有名な三木露風も閑谷学校に学んだ一人である。露風は今の兵庫県竜野(たつの)市に生まれ、本名は「三木操(みさお)」。少年の頃から文才があり、小学校3年のとき郡内連合綴り方(つづりかた)審査会で第一等賞、さらに新聞社の短歌にも一等入賞をしている。

 竜野中学校に進学してからも、ますます文筆活動も活発となり、各紙に詩歌・俳句・漢詩・散文・文芸時評などの投稿をして好評を得たという。首席で進学した「操」も文学に熱中のあまり成績も下がり、ついに竜野中学校を2年の中途で退学した。

2.閑谷黌(しずたにこう)へ転入学

 明治37年竜野中学校を退学した操は、同年11月4日付で閑谷黌に転入学した。

 閑谷黌の神戸(かんべ)教師は、旧竜野藩士で操の父とは幼なじみであったから、身元保証人となって入学して寄宿舎に入った。一級下に竜野で文学活動をしていた旧竜野藩主の子息、脇坂祐之進(わきさかゆうのしん)がいた。操は、閑谷でも新体詩研究会をつくって、校友会雑誌「閑谷」紙上でも目覚しい活躍をした。

3.不言園に住む

 明治38年1月寄宿舎を出て、閑谷地区の中島氏宅に下宿した。そして同家の梨畑の中にある小屋を借りて住むようになった。その小屋の室内には、西校長の「不言園」の額が掲げられていた。見晴らしのよい場所で、操の創作活動はさらに活発になったといわれる。

4.閑谷黌退学

 不言園で創作活動に耽っていた操は、文学で自立しようと考え、退学を決意した。
そして「予が吉備国(きびこく)閑谷を去る記念の集」として詩歌集「夏姫」を出版した。操16歳の夏であった。

三木露風の略年譜
明治22年(1889) 0歳 6月23日出生
父 節太郎 母 かた の長男。
同 28年(1895) 6歳 母 かた離婚し弟を連れて鳥取に帰る。
祖父制(すさむ)に養育される。
同 35年(1901) 12歳 句作を始め、雑誌「少園」をつくる。
同 37年(1903) 15歳 竜野中学から閑谷黌に転学して創作にふける。
同 38年(1904) 16歳 詩歌集「夏姫」を出版して閑谷黌を去り、上京する。
同 42年(1909) 20歳

早稲田大学、慶応義塾に学ぶ。
詩集「廃園」「寂しき曙」を刊行。

大正 2年(1913) 24歳 相ついで詩集を刊行し、北原白秋と並んで詩壇の双壁といわれる。
同 9年(1920) 31歳 北海道トラピスト修道院の講師となり、4年間勤める。
このころ幼児のころの思い出の詩「赤とんぼ」を作る。
同 11年(1922) 33歳 露風夫妻とも受洗。露風はパウロ、夫人はモニカ。
昭和 2年(1927) 39歳 ローマ教皇より、勲章とホーリーナイトの称号を受ける。
同 15年(1940) 52歳 竜野市に「ふるさと」の詩碑が建立される。
同 37年(1962) 74歳 竜野市名誉市民、翌年紫綬褒章を受賞。
同 39年(1964) 76歳 12月21日交通事故に遭い、同29日死去