本文
e-Bizen Museum <閑谷学校ゆかりの人々13>
閑谷学校ゆかりの人々
伊里公民館
* 西毅一(にし きいち) <薇山(びざん)>(1843~1904)
1.閑谷学校再興
明治10年 山田方谷の死去により、閑谷精舎も休止状態になったが、同14年西毅一・岡本巍(たかし)らが運動して復興することになり、「保黌会(ほこうかい)」を造って資金を募集し、同17年8月1日西毅一(薇山)は、教頭となって開校式を行った。学科は漢学・数学で最初の生徒は56名であったが、この年の入学者は106名にもなった。
2.情熱の教育者
閑谷をこよなく愛し、生徒を愛し教え導いた先生は、一家をあげて閑谷に移り住み、山を開き桑を植え妻や娘に養蚕をさせ、田を耕し、一身を投げ打って教育にあたった。世に「備前聖人」と讃(たた)える。
華甲斎(かこうさい)建つ
西先生の還暦を祝って、教えを受けた生徒たちが、相談して先生の住まいとして贈ったのが、この華甲斎である。(讃岐出身の儒者藤沢南岳(なんがく)の命名)今も石塀の西、山裾にある。
最初の国会議員
明治23年我が国に憲法が制定され、国会が開設されると、先生は地区の強い願いによって第一回の衆議院議員に選出された。第二回にも選出されたが、その後再び出馬することなく教育に専念した。
謎(なぞ)の自決(じけつ)
明治37年3月29日、華甲斎隣の納屋で、自決してこの世を去った。その理由については、諸説があるが未だに謎とされている。別れを惜しむ門人たちによって登下校の道を見下ろす場所、西谷墓所葬られ、生徒たちを優しく見守っている。
天保 14年(1843) | 0歳 | 出生。父岡山藩士霜山徳左衛門。(しもやまとくざえもん)のち西達三郎(にしたつさぶろう)の養子となる。 |
---|---|---|
安政 5年(1858) | 15歳 | 大阪で後藤松蔭に入門漢学を修め、池田家の儒者となる。 |
明治 2年(1869) | 26歳 | 東京に遊学。 |
同 3年(1870) | 27歳 | 中国に遊学。 |
同 4年(1871) | 28歳 | 岡山県学校督事。 |
同 8年(1875) | 32歳 | 岡山県参事。翌年東京上等裁判所判事。 |
同 12年(1879) | 36歳 |
自由民権運動に参加、国会開設建白書を起草する。 |
同 14年(1881) | 38歳 | 中川横太郎、岡本巍らと閑谷保黌会(しずたにほこうかい)を結成。 |
同 17年(1884) | 41歳 | 閑谷学校を再興し「閑谷黌(しずたにこう)」として発足。黌長(こうちょう)となる。 |
同 18年(1885) | 42歳 | 一家をあげて閑谷に移り住む。 ※この年8月明治天皇特使として徳大寺侍従長閑谷黌に差遣される。 |
同 23年(1890) | 47歳 | 第一回衆議院議員に当選。 |
同 25年(1892) | 49歳 | 第二回衆議院議員に当選。以後出馬せず教育に専念す。 |
同 29年(1896) | 53歳 | 4月から翌年3月を学年度(従来は1月から12月) |
同 36年(1903) | 60歳 | 門弟が閑谷山中に「華甲斉」を新築して先生に贈る。 |
同 37年(1904) | 3月29日自決す。31日西谷に葬る(61歳)。 |