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e-Bizen Museum <閑谷学校ゆかりの人々13>

記事ID:0000509 更新日:2022年3月1日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

閑谷学校ゆかりの人々

伊里公民館

* 西毅一(にし きいち) <薇山(びざん)>(1843~1904)

1.閑谷学校再興

 明治10年 山田方谷の死去により、閑谷精舎も休止状態になったが、同14年西毅一・岡本巍(たかし)らが運動して復興することになり、「保黌会(ほこうかい)」を造って資金を募集し、同17年8月1日西毅一(薇山)は、教頭となって開校式を行った。学科は漢学・数学で最初の生徒は56名であったが、この年の入学者は106名にもなった。

2.情熱の教育者

 閑谷をこよなく愛し、生徒を愛し教え導いた先生は、一家をあげて閑谷に移り住み、山を開き桑を植え妻や娘に養蚕をさせ、田を耕し、一身を投げ打って教育にあたった。世に「備前聖人」と讃(たた)える。

華甲斎(かこうさい)建つ

 西先生の還暦を祝って、教えを受けた生徒たちが、相談して先生の住まいとして贈ったのが、この華甲斎である。(讃岐出身の儒者藤沢南岳(なんがく)の命名)今も石塀の西、山裾にある。

最初の国会議員

 明治23年我が国に憲法が制定され、国会が開設されると、先生は地区の強い願いによって第一回の衆議院議員に選出された。第二回にも選出されたが、その後再び出馬することなく教育に専念した。

謎(なぞ)の自決(じけつ)

 明治37年3月29日、華甲斎隣の納屋で、自決してこの世を去った。その理由については、諸説があるが未だに謎とされている。別れを惜しむ門人たちによって登下校の道を見下ろす場所、西谷墓所葬られ、生徒たちを優しく見守っている。

西毅一の略年譜(りゃくねんぷ)
天保 14年(1843) 0歳 出生。父岡山藩士霜山徳左衛門。(しもやまとくざえもん)のち西達三郎(にしたつさぶろう)の養子となる。
安政 5年(1858) 15歳 大阪で後藤松蔭に入門漢学を修め、池田家の儒者となる。
明治 2年(1869) 26歳 東京に遊学。
同  3年(1870) 27歳 中国に遊学。
同  4年(1871) 28歳 岡山県学校督事。
同  8年(1875) 32歳 岡山県参事。翌年東京上等裁判所判事。
同 12年(1879) 36歳

自由民権運動に参加、国会開設建白書を起草する。
再び貿易研究のため中国の天津に行く。

同 14年(1881) 38歳 中川横太郎、岡本巍らと閑谷保黌会(しずたにほこうかい)を結成。
同 17年(1884) 41歳 閑谷学校を再興し「閑谷黌(しずたにこう)」として発足。黌長(こうちょう)となる。
同 18年(1885) 42歳 一家をあげて閑谷に移り住む。
※この年8月明治天皇特使として徳大寺侍従長閑谷黌に差遣される。
同 23年(1890) 47歳 第一回衆議院議員に当選。
同 25年(1892) 49歳 第二回衆議院議員に当選。以後出馬せず教育に専念す。
同 29年(1896) 53歳 4月から翌年3月を学年度(従来は1月から12月)
同 36年(1903) 60歳 門弟が閑谷山中に「華甲斉」を新築して先生に贈る。
同 37年(1904) 3月29日自決す。31日西谷に葬る(61歳)。