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e-Bizen Museum <閑谷学校ゆかりの人々6>

記事ID:0000508 更新日:2022年3月1日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

閑谷学校ゆかりの人々

伊里公民館

閑谷学校の経営について

(1)学校領

 学校の経営について、光政は「学校は永世(えいせい)に発展すべし」と永忠に命じた。この精神が永忠によって、見事に発揮されたのが学校領をつくったことである。

 そのころは、五代将軍綱吉(つなよし)の時代で大名の国替(くにが)えや断絶などをしていた。それは赤穂藩浅野家など40家以上にもなった。

 もし池田家が、このようなことになっても、どうすれば閑谷学校が永久に栄えて人々の教育ができるかを考えた永忠は、学校田を設けて、備前藩31万5千2百石の外に置き、学校林もつけて学校経営費に充てて、備前藩の財政から独立させた。その方法は、閑谷村を学校田とし、その代わり地として海を干拓して農地を造り閑谷村の農民で希望する者を住まわせ、学校田には藩内から希望する者を下作人として採用した。また井田(せいでん)を造って学校田とし、井田村の農民に耕作させた。

(2)社倉米制度

 岡山藩の事業の多くは、社倉米を資金とした、といわれている。津田永忠のすすめで始めたこの制度は、光政の娘「奈阿子(なあこ)」が姫路藩主本田氏に嫁時の持参金を借りて、低利で貸し付けたり、米に換えて貸し付けるもので、第一に、高利貸から領民を守り、第二に、凶作のときの領民に米をほどこし、第三に、社倉米の貸し付けによって年貢を軽くすることをしたり、第四に、手習所の運営費用をつくりだすことを目的とした。