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e-Bizen Museum <閑谷学校ゆかりの人々12>

記事ID:0000507 更新日:2022年3月1日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

閑谷学校ゆかりの人々(しずたにがっこう)(ひとびと)

伊里公民館

主な人々

* 山田(やまだ)方谷(ほうこく)(1805~1878)
 山田方谷は1805年現在の岡山県高梁市で生まれ、5歳の頃には神童といわれ、新見藩主関(せき)公の前で字(じ)を書(か)き、名をあげたという、のち藩主板倉(いたくら)公に召(め)し抱(かか)えられ藩政改革を断行して全国にその名を知られ、入門する者数多く、その人格は高潔で「備中(びっちゅう)聖人(せいじん)」といわれた。

1.藩政改革に成功

 藩主板倉勝静(かつきよ)の要請に応えて、危機的状態にあった藩財政をみごと立て直した。当時備中松山藩は、石高(こくだか)5万石(まんごく)であったが、借入金(かりいれきん)は10万両(まんりょう)で多額であった。これを先生は大変苦心し、色々の方策を立てて僅か7~8年で借入金を返済したばかりでなく、そのうえに10万両の余裕(よゆう)金(きん)を蓄(たくわ)えるほどにした。このことを知(し)った全国の各藩には先生に教えを願うものが多く訪(おとず)れた。なかでも高岡藩(たかおかはん)の河井継之(かわいつぐの)助(すけ)は特に有名である。

2.老中(ろうじゅう)の顧問(こもん)

 藩政改革に成功したことは、幕府にも知られ、藩主板倉勝静は幕府の老中に抜擢(ばってき)され幕末(ばくまつ)の動乱期(どうらんき)にあって、幕政(ばくせい)の舵取(かじと)り役を任せられた。方谷先生は勝静の顧問となって努力したが、幕府の崩壊期(ほうかいき)にあって時勢(じせい)は先生の目指す方向に進まなかった。

3.閑谷学校を閑谷精舎(しょうしゃ)として再興(さいこう)

 明治になって、先生は郷里(きょうり)(高梁市)に帰り、塾(じゅく)を開いて子どもたちの教育にあたった。明治5年有志(ゆうし)たちが、岡山に学校を興(おこ)そうとして方谷先生に相談したが、先生はこれを断り「閑谷学校を再興するなら行ってもよい」と答え、有志たちも閑谷学校を再興することに努力した。先生は熊澤蕃山先生を崇拝(すうはい)しており、閑谷行きを喜んで詩を作っている。明治6年「閑谷精舎」として再興、方谷先生の来校を聞いて多くの生徒が集まった。

山田方谷の略年譜(りゃくねんぷ)
文化(ぶんか) 2年(1805) 0歳 西方村(にしかたむら)(高梁市)で出生。父は製油(せいゆ)業を営(いとな)む。
文化(ぶんか) 5年(1808) 4歳 額(がく)字(じ)を木山(きやま)神社(じんじゃ)に奉納(ほうのう)する。
5歳のころ新見藩儒丸川松蔭(しょういん)に学び、新見藩主関公に召され、御前で字を揮毫(きごう)する。
文政(ぶんせい) 5年(1822) 18歳 家業を継ぎ、学問に励む。
同 8年(ねん)(1825) 21歳 篤学(とくがく)の名声四方に広がり、藩主より二人扶持(ににんぶち)を給される。
同 12年(1829) 25歳 京都に遊学。藩主より苗字(みょうじ)帯刀(たいとう)を許され、有終(ゆうしゅう)館(かん)会頭(かいとう)となる。
天保(てんぽう) 4年(1833) 29歳 3年間江戸遊学を許され、佐藤一斎(いっさい)に入門。
弘化(こうか) 3年(1847) 43歳 津山藩、ついで庭瀬(にわせ)藩でも砲術(ほうじゅつ)を学ぶ。
嘉(か)永(えい) 2年(1849) 45歳 元締役兼(もとじめやくけん)吟味(ぎんみ)役(やく)を命じられ、藩政改革に着手する。
文久(ぶんきゅう) 1年(1861) 57歳 江戸で藩主勝静(かつきよ)の顧問となる。
翌2年将軍家茂(いえもち)に謁見(えっけん)。
慶応(けいおう) 3年(1867) 63歳 徳川氏善後の策につき、意見書を勝静に献(けん)ずる。
明治 1年(1868) 64歳 備中松山城を征討軍(せいとうぐん)に開城する。
同 6年(1873) 69歳 閑谷学校を再興し、閑谷精舎として子弟の教育に勤める。
 (蕃山村(しげやまむら)の熊澤蕃山宅(たく)跡(あと)を訪れ、低回して去るをあたわず。門人これを見て先生のために草廬(そうろ)を築き、先生遊息(ゆうそく)のために供す)
同 10年(1877) 73歳 6月26日没(ぼっ)す。西方村の墓地に葬る。