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e-Bizen Museum <閑谷学校ゆかりの人々12>
閑谷学校ゆかりの人々(しずたにがっこう)(ひとびと)
伊里公民館
主な人々
* 山田(やまだ)方谷(ほうこく)(1805~1878)
山田方谷は1805年現在の岡山県高梁市で生まれ、5歳の頃には神童といわれ、新見藩主関(せき)公の前で字(じ)を書(か)き、名をあげたという、のち藩主板倉(いたくら)公に召(め)し抱(かか)えられ藩政改革を断行して全国にその名を知られ、入門する者数多く、その人格は高潔で「備中(びっちゅう)聖人(せいじん)」といわれた。
1.藩政改革に成功
藩主板倉勝静(かつきよ)の要請に応えて、危機的状態にあった藩財政をみごと立て直した。当時備中松山藩は、石高(こくだか)5万石(まんごく)であったが、借入金(かりいれきん)は10万両(まんりょう)で多額であった。これを先生は大変苦心し、色々の方策を立てて僅か7~8年で借入金を返済したばかりでなく、そのうえに10万両の余裕(よゆう)金(きん)を蓄(たくわ)えるほどにした。このことを知(し)った全国の各藩には先生に教えを願うものが多く訪(おとず)れた。なかでも高岡藩(たかおかはん)の河井継之(かわいつぐの)助(すけ)は特に有名である。
2.老中(ろうじゅう)の顧問(こもん)
藩政改革に成功したことは、幕府にも知られ、藩主板倉勝静は幕府の老中に抜擢(ばってき)され幕末(ばくまつ)の動乱期(どうらんき)にあって、幕政(ばくせい)の舵取(かじと)り役を任せられた。方谷先生は勝静の顧問となって努力したが、幕府の崩壊期(ほうかいき)にあって時勢(じせい)は先生の目指す方向に進まなかった。
3.閑谷学校を閑谷精舎(しょうしゃ)として再興(さいこう)
明治になって、先生は郷里(きょうり)(高梁市)に帰り、塾(じゅく)を開いて子どもたちの教育にあたった。明治5年有志(ゆうし)たちが、岡山に学校を興(おこ)そうとして方谷先生に相談したが、先生はこれを断り「閑谷学校を再興するなら行ってもよい」と答え、有志たちも閑谷学校を再興することに努力した。先生は熊澤蕃山先生を崇拝(すうはい)しており、閑谷行きを喜んで詩を作っている。明治6年「閑谷精舎」として再興、方谷先生の来校を聞いて多くの生徒が集まった。
文化(ぶんか) 2年(1805) | 0歳 | 西方村(にしかたむら)(高梁市)で出生。父は製油(せいゆ)業を営(いとな)む。 |
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文化(ぶんか) 5年(1808) | 4歳 | 額(がく)字(じ)を木山(きやま)神社(じんじゃ)に奉納(ほうのう)する。 5歳のころ新見藩儒丸川松蔭(しょういん)に学び、新見藩主関公に召され、御前で字を揮毫(きごう)する。 |
文政(ぶんせい) 5年(1822) | 18歳 | 家業を継ぎ、学問に励む。 |
同 8年(ねん)(1825) | 21歳 | 篤学(とくがく)の名声四方に広がり、藩主より二人扶持(ににんぶち)を給される。 |
同 12年(1829) | 25歳 | 京都に遊学。藩主より苗字(みょうじ)帯刀(たいとう)を許され、有終(ゆうしゅう)館(かん)会頭(かいとう)となる。 |
天保(てんぽう) 4年(1833) | 29歳 | 3年間江戸遊学を許され、佐藤一斎(いっさい)に入門。 |
弘化(こうか) 3年(1847) | 43歳 | 津山藩、ついで庭瀬(にわせ)藩でも砲術(ほうじゅつ)を学ぶ。 |
嘉(か)永(えい) 2年(1849) | 45歳 | 元締役兼(もとじめやくけん)吟味(ぎんみ)役(やく)を命じられ、藩政改革に着手する。 |
文久(ぶんきゅう) 1年(1861) | 57歳 | 江戸で藩主勝静(かつきよ)の顧問となる。 翌2年将軍家茂(いえもち)に謁見(えっけん)。 |
慶応(けいおう) 3年(1867) | 63歳 | 徳川氏善後の策につき、意見書を勝静に献(けん)ずる。 |
明治 1年(1868) | 64歳 | 備中松山城を征討軍(せいとうぐん)に開城する。 |
同 6年(1873) | 69歳 | 閑谷学校を再興し、閑谷精舎として子弟の教育に勤める。 |
(蕃山村(しげやまむら)の熊澤蕃山宅(たく)跡(あと)を訪れ、低回して去るをあたわず。門人これを見て先生のために草廬(そうろ)を築き、先生遊息(ゆうそく)のために供す) | ||
同 10年(1877) | 73歳 | 6月26日没(ぼっ)す。西方村の墓地に葬る。 |