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e-Bizen Museum <閑谷学校ゆかりの人々11>
閑谷学校ゆかりの人々
伊里公民館
* 津田永忠(つだ ながただ)(1640~1707)
1.その才は国内にならぶ者なし
永忠は、性格は清廉、剛直で、知恵者といわれ、主君光政が「才は国内にならぶ者なし、使いようによっては毒にもなる」と言ったほどである。
2.万能の賢臣
永忠は、超能力の持ち主ともいわれ、驚くばかりの各種事業を完成させた。藩主光政とまさに「名君・賢臣」の仲であった。
3.土木巧者
岡山の元禄時代を築いたといわれるほどの各種事業を完成させ、今日にいたるまで多くの県民に恩恵を与え続けている恩人である。
手掛けた工事
和意谷墓所(わいだにぼしょ)、藩校、閑谷学校、井田、倉田新田(くらたしんでん)、幸島新田(こうじましんでん)、沖新田、後楽園、吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)、牛窓波止(うしまどはと)、大多府湊(おおたぶみなと)、倉安川(くらやすがわ)、田原井堰(たはらいせき)、同用水、備前大用水など、永忠の関わった工事はいずれも堅牢無比、完璧の配慮のもとに施工してあり、全く驚くばかりの工法である。これら多くの工事の成功のかげには、永忠を取り巻く優秀なスタッフがあったからである。(石工集団など)
無類の健脚
永忠の数々の事業成功のかげには、彼の才能が群を抜いていたことは勿論であるが、強靭な体力があったことがあげられる。一例として41歳のときには、岡山~京都間約250km(合計500km)を僅(わず)か4日間で往復したほどである。
寛文 7年(1667) | 28歳 | 和意谷墓所の造営。 |
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同 9年(1669) | 30歳 | 岡山藩学校の建設。 |
同 10年(1670) | 31歳 |
閑谷学校の設立、井田の地割を命じられる。 |
同 12年(1672) | 33歳 | 和意谷墓所、閑谷学校、井田、社倉米の専任。 |
延宝 1年(1673) | 34歳 | 閑谷に移住、閑谷学校講堂建立。 |
同 7年(1679) | 40歳 | 倉田新田完成(293町倉安川の開削 。 |
同 8年(1680) | 41歳 | 京都所司代に使し、岡山~京都間を4日間で往復。 |
天和 2年(1682) | 43歳 | 牛窓にて朝鮮通信使の往(6月)復(10月)とも接待。 |
貞享 1年(1684) |
45歳 | 幸島新田の開発(561町) |
同 3年(1686) | 47歳 | 百間川の開削。翌年後楽園の造営鍬初め(1700年)完成。 |
元禄 1年(1688) | 49歳 | 下井田(閑谷学校田)の開発(9町) |
同 5年(1692) | 53歳 | 沖新田の開発(1918町) |
同 7年(1694) | 55歳 | 浅野公備中松山城請取(うけとり)の際、岡山藩主の使者として松山に赴く。 |
同 8年(1695) | 56歳 | 牛窓湊一文字波止を築く。この頃に田原用水延長工事完成す。 |
同 9年(1696) | 57歳 | 吉備津彦神社造営。 |
同 10年(1697) | 58歳 | 津山藩森家断絶備作国境警備。曹源寺の造営。 |
同 11年(1698) | 59歳 | 大多府島の湊築造。福山藩水野家断絶国境警備。 |
元禄 14年(1701) | 62歳 | 赤穂城明け渡し、播備国境警備。閑谷学校石塀完成。福神社造営。 |
同 15年(1702) | 63歳 | 閑谷学校椿山(御納所(ごなっしょ))を造る。 |