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e-Bizen Museum <閑谷学校ゆかりの人々11>

記事ID:0000505 更新日:2022年3月1日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

閑谷学校ゆかりの人々

伊里公民館

* 津田永忠(つだ ながただ)(1640~1707)

1.その才は国内にならぶ者なし

 永忠は、性格は清廉、剛直で、知恵者といわれ、主君光政が「才は国内にならぶ者なし、使いようによっては毒にもなる」と言ったほどである。

2.万能の賢臣

 永忠は、超能力の持ち主ともいわれ、驚くばかりの各種事業を完成させた。藩主光政とまさに「名君・賢臣」の仲であった。

3.土木巧者

 岡山の元禄時代を築いたといわれるほどの各種事業を完成させ、今日にいたるまで多くの県民に恩恵を与え続けている恩人である。

手掛けた工事

 和意谷墓所(わいだにぼしょ)、藩校、閑谷学校、井田、倉田新田(くらたしんでん)、幸島新田(こうじましんでん)、沖新田、後楽園、吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)、牛窓波止(うしまどはと)、大多府湊(おおたぶみなと)、倉安川(くらやすがわ)、田原井堰(たはらいせき)、同用水、備前大用水など、永忠の関わった工事はいずれも堅牢無比、完璧の配慮のもとに施工してあり、全く驚くばかりの工法である。これら多くの工事の成功のかげには、永忠を取り巻く優秀なスタッフがあったからである。(石工集団など)

無類の健脚

 永忠の数々の事業成功のかげには、彼の才能が群を抜いていたことは勿論であるが、強靭な体力があったことがあげられる。一例として41歳のときには、岡山~京都間約250km(合計500km)を僅(わず)か4日間で往復したほどである。

津田永忠の略年譜(りゃくねんぷ)
寛文 7年(1667) 28歳 和意谷墓所の造営。
同 9年(1669) 30歳 岡山藩学校の建設。
同 10年(1670) 31歳

閑谷学校の設立、井田の地割を命じられる。

同 12年(1672) 33歳 和意谷墓所、閑谷学校、井田、社倉米の専任。
延宝 1年(1673) 34歳 閑谷に移住、閑谷学校講堂建立。
同 7年(1679) 40歳 倉田新田完成(293町倉安川の開削 。
同 8年(1680) 41歳 京都所司代に使し、岡山~京都間を4日間で往復。
天和 2年(1682) 43歳 牛窓にて朝鮮通信使の往(6月)復(10月)とも接待。

貞享 1年(1684)

45歳 幸島新田の開発(561町)
同 3年(1686) 47歳 百間川の開削。翌年後楽園の造営鍬初め(1700年)完成。
元禄 1年(1688) 49歳 下井田(閑谷学校田)の開発(9町)
同 5年(1692) 53歳 沖新田の開発(1918町)
同 7年(1694) 55歳 浅野公備中松山城請取(うけとり)の際、岡山藩主の使者として松山に赴く。
同 8年(1695) 56歳 牛窓湊一文字波止を築く。この頃に田原用水延長工事完成す。
同 9年(1696) 57歳 吉備津彦神社造営。
同 10年(1697) 58歳 津山藩森家断絶備作国境警備。曹源寺の造営。
同 11年(1698) 59歳 大多府島の湊築造。福山藩水野家断絶国境警備。
元禄 14年(1701) 62歳 赤穂城明け渡し、播備国境警備。閑谷学校石塀完成。福神社造営。
同 15年(1702) 63歳 閑谷学校椿山(御納所(ごなっしょ))を造る。