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e-Bizen Museum <閑谷学校ゆかりの人々4>

記事ID:0000504 更新日:2022年3月1日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

閑谷学校ゆかりの人々

伊里公民館

閑谷学校の歴史について

(1)学校建設の候補地

 寛文6年(1666年)10月 池田光政は津田永忠(つだ ながただ)をつれ京都にある祖父の池田輝政(てるまさ)・父の池田利隆(としたか)の墓を備前藩内に移すため、候補地を選ぶための見回りに出かけた。

 永忠の案内で、木谷村(現在の備前市閑谷)を訪れた光政は「この地は勉学に良い地であるから、学校を造るように」と永忠に命じた。

(2)学校の建設

 寛文8年(1668年)岡山藩内に123ヶ所の手習所がつくられた。このときに、木谷村にも手習所が開かれた。寛文9年には、岡山西中山下(にしなかさんげ)に藩校(武士の学校)が開かれ、翌年に光政は永忠に木谷村延原に学校を建てるよう命じた。命令を受けた津田永忠は、学校建設に全力を尽くし、実に32年の年月をかけ、元禄14年(1701年)にすべての工事を完成させた。

 完成された建造物は、講堂、小斎(しょうさい)、習芸斎(しゅうげいさい)、飲室(いんしつ)、文庫(ぶんこ)、聖廟(せいびょう)(孔子廟)、校門、芳烈祠(ほうれっし)(閑谷神社)、石塀(せきへい)、泮池(ち)、椿山(つばきやま)などでそのすべてが現在国の特別史跡に指定されている。

 特に、講堂は学校施設として、全国でただ一つの国宝である。