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e-Bizen Museum <閑谷学校ゆかりの人々10>

記事ID:0000503 更新日:2023年4月1日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

閑谷学校ゆかりの人々

伊里公民館

* 熊澤蕃山(くまざわばんざん)(1619~1691)

1.人格ならぶ者なし

 熊澤蕃山は、江戸時代に「人格、識見(しっけん)は当代にならぶものなし」といわれたほどの優れた経世家であり、その政治的手腕は幕閣や諸大名、学者、政治家など多くの人々が認めている。光政を補佐し民政を心がけ、教育をすすめて備前藩の基礎を築いた。

2.熊澤蕃山の略歴

 元和5年 京都五条稲荷に生まれる。父 野尻一利。8歳で母方の熊澤氏を受け継ぐ。

 16歳で、池田光政公に仕えたが20歳のとき辞め、近江(滋賀県)に移り住む。

 23歳で、中江藤樹に入門して陽明学を修める。

 27歳で、再び備前藩に仕え、32歳で、番頭になり鉄砲組頭、知行3千石。

 38歳で、狩猟中に負傷し、39歳で、退職し寺口村に隠棲。

 その後、幕府に睨まれ、京都・吉野山・鹿背山(かせやま)・明石・郡山など各地を移住。

 73歳 古河(こが)(茨城県)で没し、総和町の鮭延寺(けいえんじ)に埋葬される。

3.蕃山に隠棲

 木谷(きだに)で狩猟中に負傷したため、武士としての勤めができなくなり、隠居を願い出て主君光政の三男政倫(まさとも)を養嗣子(ようしし)にして跡目をゆずり、領地である寺口村に移り住む。寺口村を蕃山村(しげやまむら)(備前市蕃山)と改め、自分の姓名も蕃山了介(りょうかい)と称した。

蕃山村と名付けた理由について

新古今集の中にある源重之(みなもと しげゆき)の歌

「筑波山(つくばやま)はやましげやましげけれど、思ひ入るにはさはらざりけり」から取ったといわれ、治山治水を心掛ける蕃山の心境を表すものとされている。