本文
e-Bizen Museum <閑谷学校ゆかりの人々9>
閑谷学校ゆかりの人々
伊里公民館
2.人物紹介
* 池田光政(1609~1682)
1.三名君といわれた殿様
光政は江戸時代の初め頃、徳川光圀(とくがわ みつくに)、保科正之(ほしな まさゆき)とともに、三人の名君といわれた。
光圀は、家康の孫で水戸黄門とよばれ、儒学を奨励し、民を慈しむ政治を行った。また、「大日本史」を著し、湊川に楠木正成の碑を建てた。
正之は、家康の孫で、会津藩主のとき領民を保護し、儒学を好み学校を建て教育に力を注ぎ、幕末まで続く会津藩の基礎を築いた。
2.民本思想
光政は、節約することを旨とし、学問を奨励し、熊澤蕃山を重く用いて、「民は五穀を作りて人を養う、婦女子は衣を織りて人に着せしむ」「一夫(いっぷ)耕(たがや)さずして天下その飢えを受け、一婦織らずして天下その寒を受く」として民を国の本とし、「昔の武士は民を安んじる役人であった、今の武士は民をせしむる催促人(さいそくにん)、甚だしきは民の賊なり」(大学或門)という蕃山の思想を取り入れ民を国の本とした政治を行った。
3.庶民教育
光政は、民本思想を実行するため、武士階級の教育の場である藩学校の外に庶民も学べる場として、全国でも最初に学校を造って、武士の子も庶民の子も共に学ばせ「領内に読み書きのできない者がないよう」にと命じた。この命令を受け、津田永忠が今に残る見事な閑谷学校を建設した。
慶長14年(1609) | 1歳 | 出生(父利隆)。 |
---|---|---|
元和2年(1616) | 8歳 | 父の遺領(42万石)を継ぎ姫路城主となる。 |
同3年(1617) | 9歳 |
若年の理由で鳥取(32万石)に移封される。 |
寛永5年(1628) | 20歳 | 千姫の娘 勝子と結婚。 |
同9年(1632) | 24歳 | 国替えで備前藩(31万5千2百石)主となる。 |
同11年(1634) | 26歳 | 熊澤蕃山を召し抱える。 |
承応3年(1654) |
46歳 | 備前大洪水の復興にあたる(幕府から銀3千貫借る)。 |
明暦3年(1657) | 49歳 | 熊澤蕃山の寺口村(現在の備前市蕃山)への隠退 |
寛文6年(1666) | 58歳 | 藩内の寺院・神社の整理をする。 |
同7年(1667) | 59歳 | 和意谷(わいだに)に祖父輝政・利隆の墓を造る |
同8年(1668) | 60歳 | 領内に123の手習所を造る。翌年岡山藩学校を創設。 |
同10年(1670) | 62歳 | 閑谷学校の建設・井田の地割りを命ずる。 |
同12年(1672) | 64歳 | 綱政に家督を譲る。 |
天和2年(1682) | 74歳 | 死去。和意谷墓所に葬る。 |