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e-Bizen Museum <閑谷学校ゆかりの人々9>

記事ID:0000501 更新日:2022年3月1日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

閑谷学校ゆかりの人々

伊里公民館

2.人物紹介

* 池田光政(1609~1682)

1.三名君といわれた殿様

 光政は江戸時代の初め頃、徳川光圀(とくがわ みつくに)、保科正之(ほしな まさゆき)とともに、三人の名君といわれた。

 光圀は、家康の孫で水戸黄門とよばれ、儒学を奨励し、民を慈しむ政治を行った。また、「大日本史」を著し、湊川に楠木正成の碑を建てた。

 正之は、家康の孫で、会津藩主のとき領民を保護し、儒学を好み学校を建て教育に力を注ぎ、幕末まで続く会津藩の基礎を築いた。

2.民本思想

 光政は、節約することを旨とし、学問を奨励し、熊澤蕃山を重く用いて、「民は五穀を作りて人を養う、婦女子は衣を織りて人に着せしむ」「一夫(いっぷ)耕(たがや)さずして天下その飢えを受け、一婦織らずして天下その寒を受く」として民を国の本とし、「昔の武士は民を安んじる役人であった、今の武士は民をせしむる催促人(さいそくにん)、甚だしきは民の賊なり」(大学或門)という蕃山の思想を取り入れ民を国の本とした政治を行った。

3.庶民教育

 光政は、民本思想を実行するため、武士階級の教育の場である藩学校の外に庶民も学べる場として、全国でも最初に学校を造って、武士の子も庶民の子も共に学ばせ「領内に読み書きのできない者がないよう」にと命じた。この命令を受け、津田永忠が今に残る見事な閑谷学校を建設した。

池田光政の略年譜
慶長14年(1609) 1歳 出生(父利隆)。
元和2年(1616) 8歳 父の遺領(42万石)を継ぎ姫路城主となる。
同3年(1617) 9歳

若年の理由で鳥取(32万石)に移封される。

寛永5年(1628) 20歳 千姫の娘 勝子と結婚。
同9年(1632) 24歳 国替えで備前藩(31万5千2百石)主となる。
同11年(1634) 26歳 熊澤蕃山を召し抱える。

承応3年(1654)

46歳 備前大洪水の復興にあたる(幕府から銀3千貫借る)。
明暦3年(1657) 49歳 熊澤蕃山の寺口村(現在の備前市蕃山)への隠退
寛文6年(1666) 58歳 藩内の寺院・神社の整理をする。
同7年(1667) 59歳 和意谷(わいだに)に祖父輝政・利隆の墓を造る
同8年(1668) 60歳 領内に123の手習所を造る。翌年岡山藩学校を創設。
同10年(1670) 62歳 閑谷学校の建設・井田の地割りを命ずる。
同12年(1672) 64歳 綱政に家督を譲る。
天和2年(1682) 74歳 死去。和意谷墓所に葬る。

閑谷学校ゆかりの人々の案内版