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e-Bizen Museum <閑谷学校ゆかりの人々2>
閑谷学校ゆかりの人々
伊里公民館
伊里の地名について
伊里村は閑谷新田村(しずたにしんでんそん)、木谷村、伊里中村、友延村(とものべむら)、穂浪村(ほなみむら)、蕃山村(しげやまむら)、麻宇那村(あそうなむら)の七つの村が明治22年に合併して誕生した。
(難田村(なだむら)、井田村(いたむら)、木生村(きぶむら)の三つの村は、明治8年に合併して穂浪村となっていた。)
和気郡(わけぐん)(現在の備前市、和気町、吉永町、日生町(ひなせちょう)、佐伯町(さえきちょう)など)は江戸時代には97もの村が存在したが、この年に19の村になった。
古代では閑谷新田村、木谷村、伊里中村、友延村、蕃山村、麻宇那村は藤野郡(ふじのごおり)新田新庄(にゅうたしんしょう)、また難田村、井田村、木生村の三つの村は、藤野郡新田伊里庄といわれていた。
明治11年に地方制度の改革として郡、区、町、村が誕生し、江戸時代から続く村の上に連合戸長(村長)が置かれた。この制度を改めて明治22年に市・町・村を置き、隣接の数村を併せて「村」とした。
統合のとき各村では、その「村名」について大いに議論されたようで、旧村のうちで・・・
- 有名な地名をとって村名としたもの(片上、三石、伊部、日生など)
- 古代・中世の郷、庄、保の名を村名としたもの(伊里、藤野、和気、香登など)
- 旧村名の一部を併せて村名としたもの(福河、山田など)工夫して新村名とした。
伊里村は古庄名の「伊里の庄」から採用しているが、伝えられるところによれば「伊(これ)わが里(さと)」と読ませ誇りをもって伊里村としたともいわれている。