本文
e-Bizen Museum <加藤忍九郎翁物語7>
忍九郎と三石 加藤忍九郎翁物語
三石公民館
山陽鉄道布設へと
この山の原料をどのようにして運ぶのですか
この宝の山の原料を運ぶ事ではちょっと苦労しました。
まず、
- 山から地元の工場ルート
- 山から片上方面ルート
- 山から日生港ルート(国内)
- 山から三石駅ルート等があります。
当時は、(1)(2)のルートは、牛、馬車で運びます。
(1)(4)のルートも牛、馬車で、後に索道を建設しました。
この山道を牛、馬車の運送は大変な苦労があったと思われます。道路には 花崗岩の切石を 敷き 詰 車輪がぬかるみにとられるのを防いだのです。現代でも、鉱山経営にとって運送方法は大変重要なことです。
明治17年10月14日の山陽新報に 載った記事がそれを教えてくれます。
『和気郡野谷村の加藤忍九郎(38歳)は去る十日の夜、村民を自宅に呼び集め、汽車の 重宝な事を説き、今度出来る鉄道は 是非、三石を通してもらうよう鉄道会社に 請願書を送りたいと説明しました。しかし、村民はちんぷんかんぷんながら 万事よろしくと 散会したといいます。』
明治22年に神戸、姫路間が開通して、岡山、広島間の工事を予定する中、 難問山積の三石トンネル、そして、勾配の問題。そうです、ルートを決めることがどれほど大変かが 推察できます。
忍九郎 「わしは、この宝の山の原料に命をかけている。どうか皆さんのお力で、三石の原料を全国に運びましょう。」
そして、鉄道は、明治23年12月5日に三石を通過しました。
山陽鉄道(株)は加藤忍九郎の布設功労に 報いるため、 終身2等パスを贈ったといわれます。