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e-Bizen Museum <加藤忍九郎翁物語6>

記事ID:0000496 更新日:2023年4月1日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

忍九郎と三石 加藤忍九郎翁物語

三石公民館

耐火煉瓦へと

大阪商人「忍九郎さん今度パリーの万国博覧会にも石筆を出品しましょう。」
忍九郎 「いやいや、もう国内だけで手がいっぱいですよ。」
大阪商人「これは、大阪石筆に箔をつけるだけなので、心配要りません。」

 ところが、明治22年のこの博覧会で褒状受領となってまた名声が上がりました。

 大阪商人の資本と加藤一族の技術がここにドッキングしたことにより、石筆製造、石粉造、耐火レンガ製造とつながり、ついに合資会社が設立されました。

 当時の契約証書には
 舶来物品商 岩井文助(いわいぶんすけ) (現 日商岩井の祖)
 勝次郎(かつじろう)
 学校用品商 橋本 定吉
 石筆商 加藤 忍九郎
 琴次(ことじ)
 農業 神崎 善造(ぜんぞう)

 他10名ほどの出資者の名前があります。
 この会社の支店が、野谷村の忍九郎邸に置かれていました。
 さて、事業は大きくなってまいりましたが、
 忍九郎 「わしは、どうも大阪商人と合わん。これからは、耐火レンガじゃ。清国と戦争でも始めたら、ますます耐火レンガじゃ。」

耐火煉瓦へと(たいかれんが)の画像1耐火煉瓦へと(たいかれんが)の画像2

 話をちょっと前に戻します。
 巨智部博士との出会いで

 明治18年博士の指導のもとに原料の粉砕(ふんさい)から研究を始めました。
 忍九郎 「よし、大阪方が反対するのなら三石でレンガを作ろう。

 しかし、レンガはうんと難しいぞ。これは、職人が必要じゃ。陶器の技術者を招いて窯を作ろう。」
 さて、その時の陣容は
 神崎 善造の実弟 岸 鶴次郎(きし つるじろう)
 釜石製鉄所勤務 武本 高太郎(たけもと こうたろう)
 経験者 社員 木下 和太蔵(きのした わたぞう)
 経験者 社員 金出地 米吉(かなでじ よねきち)等である。
 窯は登り窯から始めたがやがて需要が賄ず新窯への挑戦が始まります。

社員 「社長これでは、金も続かないし、なかなかうまく焼けません。」
忍九郎 「だから、忍苦労じゃ。きっと焼いてみせる。もう大阪はほっとけ、わしはもうレンガ一本じゃ。」

 やがて研究に研究を重ねた結果、三石の駅近くに2本の煙突が現れました。三石工場だ。

耐火煉瓦へと(たいかれんが)の画像3

 三石耐火煉瓦(株)の産声は明治23年11月であります。

 さて、大阪から手を引いた忍九郎は、石筆会社と分かれ、煉瓦製造1本に絞りました。三石耐火煉瓦(株)が命。その好調)さは、目を見張るものがありました。

 加藤家は、レンガの材料となる蝋石山の良いものを手に入れるべく血眼になって山々を探しました。

 その1つ台山の西の峯、大山平に良質の蝋石を発見し、この山を手に入れることに成功しました。その時、ともに出資したのが室谷市兵衛(むろたに いちべえ)でのちに室谷クレー工業との関係ができた原因であります。(これも三石蝋石の石筆くずが良質であった為、水ひで良質のクレーを作り上げることに成功したからです。)

 この大山平がのちに大平となり大平鉱山となりました。この時の経営者が加藤、神崎、万波(まんなみ)の各家であります。

 忍九郎 「わしも、三石耐火煉瓦と大平鉱山の両方で事業が伸びていってくれることを願うのみじゃ。」

 ところがどっこい、ゴタゴタが続きました。それは、優秀な原料が出れば出るほど問題は表面化して、ついには、三石耐火煉瓦より手を引き鉱山1本へと進むことになるのです。

 この間、日露戦争等があり、煉瓦の景気はまさにうなぎのぼり、事業家加藤忍九郎としては、この機を逃すまいと、加藤耐火製造所に力を入れ、ついには、三石耐火煉瓦加藤合資会社を組織、近年まで、神崎耐火煉瓦として引き継がれてきました。

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