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e-Bizen Museum <加藤忍九郎翁物語5>

記事ID:0000495 更新日:2019年12月9日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

忍九郎と三石 加藤忍九郎翁物語

三石公民館

三石から大阪へ

大阪商人 「加藤さん、この間の 注文本数はまだ出来ませんか。」
忍九郎 「ちょっと待ってください。いま必死で石を探しています。 加工人夫(かこうにんぷ)の 確保もして仕事をやらせていますが、この長雨で三石からまだ荷物が届きません。もう十日になります。」(三石~大阪間 早い便で2日、天候によっては10日)
 大阪商人 「困ったな、全国からやいのやいのの 催促です。」
 大阪商人 「忍九郎さん、 原料は 大丈夫ですか。」
 忍九郎 「それはもう、身内を 総動員して探しています。」
 大阪商人 「忍九郎さん、加工方法を考えてもう少し安くなりませんか。百姓の子供は買えません。田舎の子が買える値段は1銭5厘がよいところ、それでも貧しいところの子は大変じゃ。」

 そして、世の中はどんどん変わりました。明治も中頃になると文明の力は、まるで朝顔のように朝起きたら花の数が増えるように外国の文明が入ってきました。
 その中の大きい出来事に鉄道と 電灯(でんとう)の発展がありました。一方で忍九郎は石筆の先行きにも心配が頭の中をよぎりました。石筆のくずにも手をやいていた矢先、東京から巨智部博士(こちべはかせ)の教えを請機会に恵まれました。

 博士 「これはいい。これは火に強い鉱物です。耐火物に使えますよ。」
 忍九郎 「火に強い、火に強い石か、鉄がとけても石は大丈夫か。」
 忍九郎は久しぶりに企業家魂に火がつきました。ムラムラと燃える気持ち、頭の中はあれやこれやの想念でいっぱいになりました。
 忍九郎 「よし、株主総会で発表だ。新しい商品の開発には金がいる。皆さんの協力を得よう。」

 お話は、ちょっと前にさかのぼります。
 明治9年忍九郎は三石に石筆製造会社として校用舎を作りました。これが将来大平鉱山(株)へと進展していくのです。この時、品質と能率を工夫して、鋸(のこぎり)とのみを作り規格を統一、工場らしき姿にし、学校用品製作所、省略して校用舎を作りました。

三石から大阪への画像

 その頃、明治に入って世の中もやっと落ちついてきたかと思いきや、さにあらず。九州では、西郷隆盛の内乱が勃発、政府はこれを鎮圧するため戦費用に紙幣を濫発、物価はどんどん上がりました。

 そして、地方の農村にまで金まわりが多少よくなって石筆1本も買えなかった庶民が買えるようになってきたのです。需要は見る見る伸びていきました。
 村人 「忍九郎さん、この度はおめでとう。第1回の内国勧業博覧会で花紋章牌(かもんしょうひ)をいただいたそうですのー。」
 忍九郎 「校用舎の石筆もこれで名が売れる。オーまた大阪から注文が来たぞ。」
 社員 「社長、これは大阪に店を持ちましょう。三石の方は、私達に任せてください。」
 そこで忍九郎は、明治15年~16年に大阪横堀に店を構えました。その石筆は需要とともに発展し、さらなる商品レンガへの道につながっていくのです。

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