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e-Bizen Museum <加藤忍九郎翁物語3>
忍九郎と三石 加藤忍九郎翁物語
三石公民館
忍九郎の故郷とおいたち
生れた所は、まず写真を見ていただきましょう。
「いあー」本当に山あいの町だ。
しかしなんとすばらしい交通の要所!!
当然歴史上の 舞台にいくども出て来る山あいの村道は、人の往来と戦の場くらいで、近代史に花開くこんな超宝物がこの地にひそんでいると誰が想像出来たでしょう。
「こんにちは、忍九郎です。そうです。私はこんな山あいの村に生れました。」
天保9年(1838)1月5日に現在の備前市野谷488、 通称愛宕平(あたごひら)という所で 産声を上げました。
父素兵衛は、勉強好きで藩主池田候(光政、 綱政)、津田永忠等によって建てられた閑谷学校に学び、自分もまた先生になって多くの人に 儒教等を教えました。
父 「忍九郎、お前は将来わしのあとをついで名主になるのだから閑谷学校で勉強をして来なさい。」
忍九郎 「はい。父上わかりました。でも父上、閑谷学校ではどんな事を教えてくれるのですか。」
父 「そうだな、藩の定めで儒教の中でも特に 朱子学を教えている。」
忍九郎 「父上、私は、名主よりも何か事業をやりたいのです。」
父 「忍九郎、今は 世襲制度といってな、名主の子は名主をやることになっている。だから、物づくりはむりだぞ。」
忍九郎 「父上、私が一人前になる頃は、新しい時代になっているかも知れません。」
父 「うーん、わしにもわからんが、これだけ平民が勉強する 機会を与えられてきたら、時代も変わるかもしれん。」
忍九郎は、安政6年21歳にして野谷村の名主になり父の仕事を引き継ぎました。その頃、17歳で名主になった人もいるようですから忍九郎も決して早い方ではなかったようです。
父 「忍九郎、お前も名主になって民、百姓の世話をするのじゃが、お前の好きな社会も案外近いかもしれん。どうも日本の国も世の中が 騒しくなってきたようだ。」
忍九郎は、野谷村についで金谷村の名主にもなり、次第に、役人らしくなり、また、忙しくなってきました。
しかし、仕事の合間をぬっては好きな 狩猟で山を駆けめぐっていました。
父 「忍九郎、その目の 包帯はどうしたのじゃ」
忍九郎 「父上、これは、鹿を追いかけているとき、枝でついたものです。」
父 「ばか者、 罰が当たったのじゃ。いいかげんにせんかい。」
忍九郎 「はい父上。申し訳ございません。」
父 「よいか、どんな世の中になっても民、百姓の事を忘れてはならぬ。名主は、日々の生活において、手本となり、お 上との間にたって民、百姓からも感謝される人柄(ひとがら)が大切なのじゃ。」
忍九郎 「はい父上。心がけます。」