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e-Bizen Museum <宇野圓三郎物語12>
郷土が生んだ治山・治水の先駆者 宇野圓三郎物語
西鶴山公民館
山上の感激
県庁をやめた圓三郎は、翌年(1908年=明治41年)の10月、最も尊敬していた熊沢蕃山先生のお墓(茨城県総和(そうわ)町鮭延(けいえん)寺)に参り、自分に与えられた仕事をすべてやり終えて退職したことを報告しました。
それからも砂防工事に関係し付き合っている人々に手紙を送り、山を気づかう毎日を送りました。
1910年(明治43年)のある日、最初に砂防工事をした見延村(この時は池田村大字(おおあざ)見延)の人々からお招きを受けました。圓三郎は岡山を出発して湛井(たたい)という所まで汽車で行ったところ、駅には村人が大八車(八人力という大きな荷車)を用意して待ち受けていました。それに乗って村まで行き、ふもとからはモッコに乗って、山の頂上まで村人たちがかつぎ上げてくれました。
圓三郎は、村人たちに囲まれて、緑のよみがえった山並みを眺めながら「これで思い残すことはない。自分はいつ死んでもよい。」と言ったまま、しばらくじっと山を見つめていたそうです。
この時、村人は、「先生のご恩に報いることはなかなかできないが、これから先の暮らしに役立ててください。」と村人みんなで積み立てていた貯金を贈ったそうです。圓三郎はその時、「世の人の誠たのもし、その中の まことの底の知るる嬉しさ」と短歌を作り、涙を流しながら感謝したと伝えられています。