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e-Bizen Museum <宇野圓三郎物語8>
郷土が生んだ治山・治水の先駆者 宇野圓三郎物語
西鶴山公民館
治山・治水の第一人者に
砂防発祥の地の工事を手はじめに
砂防を担当することになった圓三郎は、1883年(明治16年)にはいって、まず、山が荒れ果てたうえに洪水で大きな被害を受けた所を調査してまわりました。
そして、急いで砂防工事をしなければならない賀陽(かよう)郡見延(みのべ)村、下道(しもみち)郡久代(くしろ)村(現在の総社市)ほか19か村、上房(じょうぼう)郡巨勢(こせ)村(現在の高梁市)、津高(つだか)郡田地子(たじこ)村(現在の建部(たけべ)町)を、県が直接工事をする所に決め、その他は郡の費用に県の補助金を合わせて工事をする所としました。
圓三郎は、県が直接行う工事はもちろん、県補助による郡の工事についても、現地に出向いて工事の必要性を説明するとともに、工事を進める技術的な細かいことまで熱心に教えました。
こうして圓三郎は、砂防工事について優れた指導者としての能力をますます発揮していったのでした。
県が指定した重要な所の工事でも、先を見越した大きな事業だったうえに、多くの労力を必要とすることなどから、なかなかみんなの理解が得られなかったり、疑問を持つ人が出たりして仕事は順調には進みませんでした。
そんな時、圓三郎は生まれ故郷の福田で、土砂せき止め実験をするため村人をねばり強く説得し成功した経験を生かし、治山・治水の大切さとそれにかける情熱を一生懸命説明しました。
すると、次第にみんなが進んで協力するようになり、工事を見事に完成させることができました。
特に、見延村を中心とする砂防工事は、全国に先がけた所(砂防発祥(はっしょう)の地)として大成果をあげ、着工後わずか7年目(1889年=明治22年)には、「砂防工碑(ひ)」が建てられ、圓三郎の功績がたたえられるまでになったのです。
その後、この地は砂防公園(砂防学習ゾ-ン)として整備され、昔の空積堰堤(からづみえんてい)(登録有形文化財)がそのまま保存されています。
そのため、いつまでも圓三郎の遺業の偉大さ、すばらしさをしのぶことができます。