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e-Bizen Museum <宇野圓三郎物語7>

記事ID:0000482 更新日:2022年3月1日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

郷土が生んだ治山・治水の先駆者 宇野圓三郎物語

西鶴山公民館

治山・治水の第一人者に
四十八歳で県庁職員に、そして住居も岡山へ

 「治水建言書」を県令に差し出し、岡山県議会で全国に先がけて、「砂防工施工規則」が定められたことにより、県はさっそくにそのことを担当して推進する職員に圓三郎を採用しました。そして、1882年(明治15年)11月25日に「岡山県土木掛雇(かかりやとい)」という職名を与えました。(日給25銭=月額ではおおよそ6円50銭)
 圓三郎はその時48歳という年齢でした。50歳代で隠居(いんきょ)する人も多くいた時代なのに、難しい仕事でしかも報われることも少ない道を選んだのです。これは圓三郎の固い信念と熱い情熱によるものと思われます。
 県庁に勤めるようになる少し前、圓三郎の過去の業績を高く評価して、邑久郡牛窓村の村長(月給20円)になってくれるよう強い誘いがありました。しかし、それを断ってわずか三分の一の給与しかもらえない県庁に勤めることを選んだのです。これは自分だけの名誉や利益にとらわれないで、みんなのためになることを先に考える人柄だったからだと思われます。
 県庁へ勤めることが決まった圓三郎は、生まれ故郷の福田を去って岡山市南方(みなみがた)251番地へ移り住むようになりました。