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e-Bizen Museum <宇野圓三郎物語6>
郷土が生んだ治山・治水の先駆者 宇野圓三郎物語
西鶴山公民館
治山・治水の第一人者に
熊沢蕃山の遺訓との出会い(くまさわばんさん)(いくん)
建言書を差し出したその夜、圓三郎のところへ年老いたお百姓さんが訪ねて来て、村の様子のことなどいろいろ話しました。圓三郎は、その人に「今日こういう内容のことを書いた意見書を県令あてに差し出して来たがどんなもんだろうか」と打ち明けました。
話を聞いたお百姓さんは、手をうっていかにもうれしそうに「それはいいことをなさいました。あなたが申し立てられた意見は、230年ほど前に熊沢蕃山(くまざわばんざん)先生が教えられたことと同じですね」と話しました。
この話は圓三郎の気持ちを大きく動かしました。
それは、あまり勉強していないと思われるお百姓さんの口から熊沢蕃山の名前があがり、しかも2世紀以上も前に「山を治めることができれば国が栄え、洪水や干ばつなどの災いも少なくなり大きな利益がでる」と、蕃山先生がみんなを教えさとしていたことと、圓三郎の建言書の内容が全く同じだったからです。
圓三郎は、蕃山先生が治山治水の教えをくわしく書かれたもの(本)をすぐにでも見たい気持ちになり、おさえることができませんでした。そこで、祖父が大切にしていた本箱を探したところ、「集義外書(しゅうぎがいしょ)」と「大学或問(だいがくわくもん)」という2冊の本が見つかりました。
圓三郎は、岡山県の治水について県令に意見書を差し出したばかりの時だっただけに、2冊の本を手にして本当に興奮しました。そして、その本の中の蕃山先生の教えの部分を何回も何回も読み返しました。食事をする時間もおしいぐらいにして、一心に読んだと言われています。
その結果、圓三郎は自分が意見を申し立てたことが間違っていなかったという自信を持つとともに、これからは蕃山先生のすぐれた考え方による砂防の方法を自分のものにし、さらに伸ばしていこう。そして、それを実際に行うことで、世のため人のために尽くそうと、固く固く心に決めました。
※ 圓三郎の功績と深い関係を持った熊沢蕃山先生のことについても知っておこう。
蕃山先生は、1619年(元和5年)京都で生まれ近江聖人(おうみせいじん)と言われた「中江藤樹(なかえとうじゅ)先生」から陽明学(ようめいがく)(中国明(みん)の王陽明の説いた儒教(じゅきょう)で、知(ち)と行(ぎょう)の合一(ごういつ)を重んじる)を学び、27歳で岡山藩の殿様であった池田光政に政治のこと(農業を栄えさせること、治山・治水をすすめること、飢(き)きん救済に努力すること)、文化面のこと(人づくりのため、だれでも学べるところをつくること)など、すばらしい実績をあげ39歳で役職をやめました。
やめた後、蕃山(しげやま)村(備前市蕃山)に移り住み、本を読み修養する日々を過ごしました。
ここを去った後、「大学或問」や「集義外書」などの本を書き、正しい政治の在り方を説きました。そのため、幕府から目をつけられて各地を転々とし、73歳で死去しました。
後々の人々は、先生のことを「世の中を治める学問」の元を築いた人と、たたえるようになりました。
「集義外書」巻一
「大学或問」治国平天下別巻