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e-Bizen Museum <宇野圓三郎物語>

記事ID:0000480 更新日:2019年12月9日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

郷土が生んだ治山・治水の先駆者 宇野圓三郎物語

西鶴山公民館

治山・治水の第一人者に
治水建言書

 圓三郎は44才になった1878年(明治11年)、それまで一生懸命に務めた村役(その時の職名は戸長(こちょう)だった)をやめました。
 それから2年後の1880年(明治13年)には、県内各地に大洪水がおきました。特に、岡山・総社・高梁での被害は、大変激しかったそうです。
 その実情を聞いて、圓三郎は心を痛めるとともに、自分が考えている「山を緑にし、一度に雨水や土砂が流れでないようにすることを、1日も早く実現しなければならない」とひそかに決意しました。
 その決意から2年目(明治15年)の春、圓三郎は用事で岡山に行き、京橋のあたりを歩きながら旭川の様子を見てびっくりしました。
 川底が土砂でうまり、川の深さも浅く、かつて聞いていたような大きな船の出入りはとても無理だということがひと目でわかった。今では四~五十石船の出入りがやっとという様子で、これでは洪水になれば岡山の町は水びたしになるにちがいないと心配でなりませんでした。

 圓三郎は決意したことをさっそく「治水建言書(ちすいけんげんしょ)」にして、時の県令(けんれい)(今の県知事)高崎五六(ごろく)に差し出しました。1882年(明治15年)4月6日のことでした。
 その建言書には、およそ次のようなことが書いてありました。
「天から恵まれる豊かな雨(水曜日)を生かして使うには、荒れ果てた山に木を植えて緑をよみがえらせ、山に雨(水曜日)がたくわえられるようにすれば、土砂が流れ出すこともなくなる。
 今、圓三郎が申し上げる土砂せき止めの方法は、わずかな費用でやりやすく、しかも大きな効果があがり、後々の世のためになること間違いない。自分が名主をしていたころ、福田村で行った土砂せき止めの実験がわずか5年で、効果をあらわした。」ことなどが書き加えられていました。

 こうして建言書は、圓三郎の治山・治水の必要性と圓三郎の成功した経験、そして圓三郎の情熱がよく伝わる文章に出来上がっていたのです。
 県令高崎五六は大変感心し、圓三郎の意見をすぐ採用しました。
そして、同年1882年(明治15年)9月の岡山県議会に「砂防工施工(せこう)規則案」を提案したのです。

 県議会は全員賛成で「規則」はすぐにでき、圓三郎の建言はみごと実現しました。
 ここから、治山・治水の先進県岡山の事業や、日本で第一人者といわれる圓三郎の活躍が始まったのです。