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e-Bizen Museum <宇野圓三郎物語4>
郷土が生んだ治山・治水の先駆者 宇野圓三郎物語
西鶴山公民館
名主となって村のために
17才になった圓三郎は、父万介から名主という村役を引きつぎ村のために活躍するようになりました。
若い名主の圓三郎は、度重なる水害で荒れかけた田んぼをよみがえらせるため、村の中にある大きな用水池の一つ「中池」の堤防を高くしました。しかし、1857年(安政5年)の大雨でその堤防がこわれ、田んぼや畑に土や石が入り荒れ果ててしまいました。
これを元どおりにするためには、福田村だけではどうにもならないので、郡内各地や岡山藩から援助をしていただくよう大変努力をしました。
この努力が認められ圓三郎は、いくつかの村を受け持つ「散田興起肝煎(さんでんこうききもいり)」という大事な役目を任されることになりました。
※ 散田とは、年貢の取り立てが厳しく作り手がいなくなった田んぼやもともと低い土地で水をかぶったり、しめりっぽくて取れ高の少ない田んぼ。さらには、洪水で荒れてしまった田んぼのことです。
なんとか中池の堤防を直すことができた時、圓三郎は堤防は直せたが、一時的に洪水を防ぐことができただけで山から流れ出る、水や土砂を防ぐことはできないと思いました。また同じようなことが繰り返されるだろうとも思いました。
根本的な解決方法について、あれこれ考えていたころ父が村の相談役をやめ、次の年に死んでしまいました。「うしろだて」をなくした圓三郎は村人たちを説得して、はげ山から土砂が流れ出ないようにする工事の実験をしました。
この実験は結果がよかったのですが、よいからといってもすぐ村全体にひろげるには資金が足りません。
圓三郎はこのために自分のお金を多く出したので、家庭では生活のやりくりが難しくなっていったそうです。
しかし、5年ほどで効果が大きくあらわれたので自信を深めました。