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e-Bizen Museum <宇野圓三郎物語3>

記事ID:0000478 更新日:2022年3月1日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

郷土が生んだ治山・治水の先駆者 宇野圓三郎物語

西鶴山公民館

おいたち

 宇野圓三郎は、1834年(天保5年)5月21日和気郡福田村(今の備前市福田)で名主(なぬし)を務める、父宇野万介(まんすけ)、母此(この)の長男として生まれました。
 幼いころは喜作という名前でしたが、あとになって圓右衛門(えんうえもん)、そして圓三郎に改めています。

※ 名主とは、福田のような村で、村を代表する役職について公の仕事をする人のこと。
名主は、親から子、子から孫へ受け継がれる「世襲制(せしゅうせい)」でした。

 7歳になった圓三郎は、学問をする基礎を身につけるために香登にあった寺子屋(備前藩香登習字所)に入り、読み書きを中心に勉強をしました。14歳になった時、決められた課程を修め終わったので寺子屋をやめました。

 村のこと、暮らしのこと、学習することなどが分かるようになった圓三郎は、貧しかった福田(家の数73戸、人の数340人、飼っている牛6頭、田んぼは段々で収穫が少ない)の様子や、木がなく穴ぼこだらけの山の状態を見て、これを何とかしなくてはいけないと思う気持ちが強くなってきました。

 また、圓三郎は村で暮らしながら村を治めることや農業を盛んにすることなどについて勉強しましたが、中でも村の外で起こった出来事(特に、あちこちで起きた洪水の被害など)の情報を集めることには、特別熱心であったと言われています。