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e-Bizen Museum <宇野圓三郎物語2>

記事ID:0000477 更新日:2023年4月1日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

郷土が生んだ治山・治水の先駆者 宇野圓三郎物語

西鶴山公民館

はじめに

 山に木を植え緑をよみがえらせると、天からの雨が山にたくわえられ恵みの水に変わります。そうすれば降った雨が河水となって一度に流れ出にくくなるので、山の土砂を押し流して川がうもれ、川下で 洪水となって災害を発生することも防げることになります。このことを治山・治水といいます。

 
 この治山・治水について、だれよりも優れた考えを持ち、実際に行うよう働きかけ、自分から先頭に立って仕事を進め、大きな成果をあげた宇野圓三郎(えんざぶろう)先生の生涯についてまとめました。


 西鶴山小学校六年生は、地区公民館の指導で、地域の大人の方々といっしょに「ふれあい交流学習」で宇野圓三郎先生のことについて熱心に勉強しました。


 その方々のご協力をいただきながら勉強したことをみんなでまとめたのが、この物語なのです。
 この冊子が、これから備前市内はもちろん岡山県内の小学校で勉強するみなさんの「ふるさと学習」のとき使ってもらえれば、こんなうれしいことはありません。

※この物語を読んで、宇野圓三郎をわかってもらうため、圓三郎が村で活躍し、考えをかためたころ(明治維新(1868年)から20年間ぐらい)の山のようすなど。
 20年間に大きな被害を出した洪水が、岡山県内で5回もあり、山は荒れ作物がつくれなくなった田や畑もたくさんありました。

 そのころの山はほとんどはげ山で、大雨が降れば多くの水と土砂が、一度に流れ出、多くの村が大きい被害を受けていました。


 なぜそうなったかを調べてみると、岡山県は昔から産業文化が発達し、山の木を生活のための燃料にするほか、鉄・塩・陶器をつくり出す燃料にたくさん使いました。
 特に、岡山県南部の山には松が多く、その根は油分を含んで火がつきやすいことから根を掘り上げ「つけぎ」(火を移す時に使う木)として売り、お金を得ていたため、山肌は穴ぼこだらけだったと言われています。