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旧閑谷学校の歴史

記事ID:0006984 更新日:2022年1月6日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示
  • 寛文10年 1670 池田光政が津田永忠に、木谷村延原に学校設立を命じる。地名を「木谷村延原」から「閑谷」に改称。
  • 寛文12年 1672 光政は隠退し、綱政が藩主となる。飲室と学房が完成。
  • 延宝元年 1673 津田永忠が木谷村に居を移し学校設立に専念。講堂(旧)完成。
  • 延宝2年  1674 聖堂(旧)が完成。
  • 延宝5年  1677 講堂の茅葺を瓦葺に改める。文庫と小斎を設ける。
  • 天和2年  1682 光政死去(享年74歳)。津田永忠と泉仲愛に閑谷学校永続を遺言。
  • 貞享元年 1684 新聖堂(大成殿)が完成。
  • 貞享3年  1686 孔子を祀る釈菜を初めて行う。芳烈祠(のちの閑谷神社)建立。
  • 元禄10年 1697 石門が完成。
  • 元禄14年 1701 孔子像が完成。備前焼瓦葺の新講堂が完成。石塀着工。
  • 元禄15年 1702 椿山(池田光政の供養塚)を学校敷地の東隣に造営。
  • 宝永元年 1704 池田光政像が完成。津田永忠が隠居し、閑谷に移住する。
  • 宝永4年  1707 津田永忠、死去。孔子像と池田光政像を聖堂と芳烈祠に安置。
  • 宝永6年  1709 藩の財政難のため、綱政が閉鎖を命じる。後に存続を決定。
  • 文化10年 1813 武元君立を教授に起用。有吉行蔵とともに黄葉亭を建立。
  • 弘化4年  1847 火除山西側の学房一帯が失火により焼失。すぐに再建。
  • 明治3年  1870 藩政改革のため、閑谷学校廃校。
  • 明治6年  1873 山田方谷を備中松山藩から招き、閑谷精舎として再興。
  • 明治10年 1877 閑谷精舎、廃校。
  • 明治17年 1884 西毅一を教頭(後に黌長)として閑谷黌を開校。
  • 明治38年 1905 学房跡に新校舎(現閑谷学校資料館)が完成。
  • 大正4年  1915 明治3年以来中断されていた釈菜が復活。
  • 大正10年 1921 岡山県に移管され、岡山県閑谷中学校となる。
  • 昭和23年 1948 学制改革に伴い、閑谷中学校は岡山県立閑谷高等学校となる。
  • 昭和24年 1949 高校再編により岡山県立和気高等学校閑谷校舎となる。
  • 昭和25年 1950 文化財保護法の制定。講堂、聖廟、神社等25棟が重要文化財指定。
  • 昭和28年 1953 講堂が国宝に指定。
  • 昭和29年 1954 特別史跡に指定。
  • 昭和39年 1964 岡山県立和気高等学校閑谷校舎閉鎖。
  • 昭和40年 1965 旧閑谷校舎は岡山県青少年教育センター閑谷学校となる。
  • 平成3年  1991 教育センター新設。旧教育センターを資料館に改修。
  • 平成27年 2015 旧閑谷学校を含むストーリー「近世日本の教育遺産群 - 学ぶ心・礼節の本源-」が日本本遺産に認定。