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e-Bizen Museum <佐藤陶崖>

記事ID:0000533 更新日:2019年12月9日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

佐藤陶崖物語

伊部公民館

誠実な息子 佐藤陶亭

 佐藤陶亭(恂太郎信恂)(1817~1877)は、陶崖の長男で、幼い頃より父から医学・製薬(薬を作ること)・書・絵・陶技(とうぎ)(焼き物を作る技術)を学び、閑谷学校で有吉謙斎(ありよし けんさい)から経史を、赤石希范(あかいし きはん)からも医学を学びました。
 

 また、早くから薬の販売や集金などで各地を旅することも経験しました。
 陶技は、藩から助細工人に任命されていたほどの確かな技術を持ち、墨絵が得意で特に竹の絵は小橋平咸や父陶崖よりも優れているという評価を受け、また、和歌も得意であったようです。

 陶亭は父から受け継いだ家の仕事である医家、製薬、備前焼窯元のすべてを見事にこなし、その上、幕末から明治の初めにかけて私塾(学而学館)を開き、伊部村西分の子弟(若者・子供)の教育に情熱を注ぎました。自らが若くして学んだ閑谷学校の伝統的な教育法を取り入れながら福沢諭吉)の『西洋事情』などで進取的教育を行っていました。


 伊部村東分では、天津神社(あまつ じんじゃ)の日幡家(ひばたけ)が子弟の教育に携わっていて、明治5(1872)年の学制頒布※により、佐藤家、日幡家それぞれの自宅が小学校となり、やがてこの2校と浦伊部村妙国寺の小学校が統合し、斎部小学校(今の伊部小学校)となりました。

 初代の校長となった大西一貫(おおにし いっかん)は陶亭の妻の甥にあたる人で、佐藤家に住んで子弟を教育していたそうです。

※ 学制頒布…明治政府が制定したわが国最初の近代学校制度に関する規定を全国に配り広めたこと。国民皆学(こくみんかいがく)の理念に基づいて各学区に大学校・中学校・小学校を設置することを計画しましたが、計画通りには実施されませんでした。

誠実な息子佐藤胸亭(世いじつ)の画像

  陶亭は、強烈な個性の父に比べ、穏やかな性格だったようです。
 彼は、尊王攘夷※の代表的人物であった公家の烏丸(藤原)光徳とも交流がありました。光徳は、戊辰戦争※などで活躍し、明治維新※後は天皇に従い東京へ移り、後に初代の東京府事に任命された人です。

 光徳は、佐藤家を備前における活動の拠点として、陶亭のことを頼るべき友と思っていたようです。その友情と感謝の証として、陶亭に掛軸を贈り、それは佐藤家の床に掲げられています。

※ 尊王攘夷…天皇の権威を絶対化することと、外国との関わりを排除することが結びついた政治思想のこと。

※ 戊辰戦争…明治元(1868)年から翌年まで行われた明治新政府軍と旧江戸幕府側との戦いの総称。

※ 明治維新…慶応3(1867)年11月の将軍徳川慶喜の大政奉還からの江戸幕府倒壊と明治新政府成立にいたる一連の政 

  治改革の過程のこと。

 陶亭自身は、詠んだ和歌の中に、「誠とふ 道さえ行かば しつか家は… 」とあるように、思いを過激な行動に起こすことなく、静かに家の仕事に努め、「誠の道」ひとすじに変革の時代を生きたのでした。