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e-Bizen Museum <佐藤陶崖>

記事ID:0000530 更新日:2019年12月9日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

佐藤陶崖物語

伊部公民館

本格的に備前焼を始める

車轄的に備前焼を貼める(ほんかくてき)(はじ)の画像

   彼が14歳から本格的に備前焼作りを始めていることが、残された多くの土型作品の型に、「佐藤次郎吉勝治 十五歳作」などと刻まれていることからわかります。
 また、16歳の享和(きょうわ)元(1801)年頃には、次郎吉は香登西村(かがと にしむら)の小橋平咸(こばし へいかん)(陶復(とうふく))という人を先生として、絵を学んでいたようです。その年に次郎吉は、『扶桑義臣傳(ふそうぎしんでん)』という本を写していて、義士像などの挿絵が見事に写し取られています。


 絵を学ぶことは備前焼の細工物・土型を作るのに必要なことですが、それだけでなく、平咸やその先生である釧雲泉(くしろ うんせん)の絵に魅力を感じたのでしょう。
 その年、弟の喜吉は、体が弱く病気がちであったため、11歳で佐藤家と縁の深い牛窓の真光院(しんこういん)というお寺に入り、性山房観中というお坊さんになりました。
 

 陶崖は、18歳になる享和3(1803)年から2年間ほど伊部を離れて勉強していたようですが、どこに行っていたのかはわかっていません。
 文化2(1805)年には伊部に帰って来て、その頃、武元登々葊(たけもと とうとうあん)・君立(くんりゅう)という兄弟の先生から書と詩文を学んでいたようです。
 

 また、文化5(1808)年に医学書『傷寒論(しょうかんろん)』※を書き写し、古医方(こいほう)※という医学の勉強に打ち込みました。

 

※ 『傷寒論』…中国の後漢時代(3世紀初め頃)の張機(ちょうき)という人の著作で、急性の熱病の治療法が記してあり、薬物治療学の最古最重要の古典であるとともに不可欠の実用書でもあります。古くから漢方医の聖典とされてきました。


※ 古医方…17世紀後半に、それまでの中国の金・元時代以後の後世派医学を廃して、晋・唐時代の根本精神に帰ることを主張した学派であり、古方派とも呼ばれました。