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e-Bizen Museum <佐藤陶崖5>

記事ID:0000529 更新日:2019年12月9日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

佐藤陶崖物語

伊部公民館

代表的な著書

 文政5(1822)年2月に陶崖は、医師としての代表的な著作となった『日本醫蘓(にほんいそ)』の上巻を著しました。「醫蘓」は現在の漢字では「医蘇」となり、「医術が正しく蘇る」という意味と思われ、この後、中巻、下巻も著されました。解読できていない部分もありますが、この本には腹候の会得や蘭方の研究について書かれています。

 陶崖は特に蘭方の書物にある「粘液」に注目し、この本の中で応用・展開しています。その説とは「疾病は体液渋滞して粘液となり水垢のごとく幾万の小虫が生じて発病するものであり、治療法は1薬1方である」という「粘液主論」で、彼は、現代の高コレステロール・高脂血症などの成人病になる原因の病気をすでに認識しており、「幾万の小虫」についても、ウイルスなどの病原菌の存在を漠然とではあるが認識していたのかもしれません。しかしながらこの説は、当時の医師の間では受け入れられなかったようです。 

 この年の6月、伯父信易が亡くなりました。76歳でした。
 

 陶崖は、医学や芸術の研究だけでなく、当時、貧しくて生活に困る人が多かった農村の経済を豊かにする方法も考えていて、それを文政7(1824)年から文政8(1825)年にかけて『経済録4巻(御代の潤(澤) ひ 鶴・亀・松・竹の巻』という本にして著しました。

 その内容としては、国中の人が月に6日夜なべをして、草履、草鞋などを作り、一人あたり銭2文を稼ぎ、その2文を生かして国中の村の経済を再興する計画、旭川の洪水の原因となる土砂の堆積を防ぐ方法、葬式における費用の削減などの経済策が書かれています。

 また、当時、生活の苦しさから、盛んに行われていた堕胎(自然に生まれる前に子を排出させて殺すこと)・間引き(生まれた子を殺すこと)・捨て子という悪い習慣に、陶崖は強い怒りを感じていて、文政9(1826)年に『堕胎訓戒(だたいくんかい)(御代の潤(澤)ひ 草の緑り子)』、天保3(1832)年に『堕胎訓戒(御代の潤(澤)ひ 子もり歌)』の2巻を著し、各地の間引きなどの実例を挙げ、親子の愛情や子供は宝であることを説き、人命を軽んずることを戒)めて、成長した子供が家の経済を潤すであろうと説いています。

代表的な著書(だいひょうてき)(ちょしょ)の画像

 文政10(1827)年8月、絲は自宅横の不老川に架かる不老橋の東詰めに、石地蔵を建立しました。それは今もそこに残っています。
 文政12(1829)年2月に片上で正宗雅敦(まさむね まさあつ)という人が主催した書画展観会があり、陶崖と恂太郎は親子で出品しました。この時恂太郎は得意の竹の墨絵を出品していますが、まだ11歳でした。