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e-Bizen Museum <佐藤陶崖>

記事ID:0000527 更新日:2019年12月9日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

佐藤陶崖物語

伊部公民館

結婚

 文化13(1816)年の夏頃、31歳のとき陶崖は結婚したようです。相手は津高郡(つだかぐん)金川村(かながわむら)(今の御津郡御津町金川)の商家野々口屋元次郎の妹の於勝(おかつ)という人でした。野々口屋は、佐藤家の薬を販売していた店の一つです。
 その年の10月頃には陶崖は大阪で医師として開業し、翌文化14(1817)年には京焼、楽焼などの窯場を訪ねるなどして、釉薬(陶磁器の表面にかけて装飾と水分の吸収を防ぐために用いる)の研究をしたりしていましたが、3月に伯父が再び病気になったため、伊部に帰りました。


 そして4月に長男恂太郎(じゅんたろう)信恂(後に号を陶亭とする)が生まれましたが、その母親である於勝とはその後離婚してしまったようです。
 文政(ぶんせい)元(1818)年の4月頃から約4か月間、陶崖は四国を旅して各地で溜飲(胃の具合が悪く、飲食物が胃の中にたまり、すっぱい液が出る症状)、労咳(肺結核)の治療を行(おこな)いました。

結婚の画像

 文政2(1819)年、その13年前に岡山藩医の山内五達という人が著して、原稿を陶崖に預けていた『備前州伊部陶器)』を、陶崖が少し書き直し、長い部分を省略するなどして、『菅むし路』と題名を付けて刊行(印刷して世に出すこと)しました。これは備前焼についてその発祥の由来や特徴などを紹介するパンフレットのようなもので、備前焼では最初のものと言われています。この表紙のデザインも陶崖が手がけていますが、非常に面白い構図になっています。


 文政4(1821)年、陶崖は36歳のときに根岸絲(ねぎし いと)という21歳の女性と再婚します。この絲は、その前に備前藩家老の土倉市正という人との間に二人の子を産んでいて、その二人はのちに備前藩筆頭家老伊木家当主となる伊木忠正(いぎ ただまさ)と伊木忠澄(いぎ ただすみ)でした。つまり絲は備前藩家老の実の母で、市正が29歳で亡くなったため、陶崖と結婚しました。藩からの勧めに従うかたちでの結婚であったようです。このことからも陶崖の名がすでに藩内でも有名)になっており、社会的)地位も高かったということがわかります。