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e-Bizen Museum <加藤忍九郎翁物語2>

記事ID:0000492 更新日:2019年12月9日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示

忍九郎と三石 加藤忍九郎翁物語

三石公民館

はじめに

地球の恵み『蝋石(ろうせき)』に感謝して

 岡長平氏の忍九郎伝には、 三石(みついし)の姿を「彼の山と申すは、山陽道第一の 難所なり。西方は 山嶺嵯々(さんれいささ)として、中に、一つの細道あり。谷深く石 滑らかにして、路、羊腸(ようちょう)を踏みて上ること二十余町~」と 冒頭に太平記の 船坂の軍のくだりをのせてありますが、三石は、このような交通の要所になければ、山あいの農村のまま今日に至っていたと言っても 過言)ではないでしょう。
 

 時代は下り、江戸時代に至り、社会は安定し、地方政治に対する大名の 分権もある程度認められるようになって、それぞれの大名の 特徴(も出てきた頃です。岡山では、 池田光政候の意志が 藩民の教育という面に現れ、 熊沢蕃山をはじめ 津田永忠、 川村平太兵衛((かわむら へいたべえ)、 都志源右衛門(ずし げんえもん)、 西村源五郎(にしむら げんごろう)等の指導者を得て学問の 裾野は広がっていったのです。閑谷学校も、下級武士や地方の役職の子供たちの教育の場として、当時としては、 画期的 な藩の事業だったに違いないと思われます。
 

 加藤忍九郎の父 素平衛(そへい) もこの閑谷学校に学び、学問に 励 み、和気郡を中心に 近隣の郡部に到るまで教育者として出向くほどの人物となり広く学業の大切さを世に問い 徳望 教化(とくぼうきょうか) に努められました。

 当然のことながら、父が名主で教育者なら忍九郎もその影響を多いに受け、若くして名主の家系を引き継ぐ人物へと成長しました。しかし世は江戸から明治へと体制の大改革で混乱はまだまだ続き世のあちらこちらで百姓一揆が勃発していました。

 そんな中で忍九郎は、この地にそのような騒動もなく村民を導く一方あらゆる名主の任務を遂行されたと伝えられています。
 また、維新後の忍九郎の活躍の素地は、この忍九郎の父素兵衛の存在があってこその思いを強く致します。

 それはやはり、地域住民との信頼関係です。忍九郎の役職歴もそれを裏付けているように思います。安政6年21歳で野谷村の名主、慶応3年29歳で金谷村の名主、明治2年31歳で田倉村名主と次々と村々の名主になり、村民のために東奔西走されていたのでしょう。

 和気郡東の加藤家、そして良い意味でボス的存在、若手のホープ的存在を伺(うかが)い知ることができる一方、石筆(せきひつ)、蝋石(ろうせき)、耐火煉瓦、クレー等の開発、そして、山陽鉄道布設に関して予定路線が喧しい問題になる中で「布設線路期成同盟会」を結成し、旧国道筋、すなわち、三石から吉永、和気から万富、瀬戸、岡山へ出る路線運動を展開し、路線決定 をもたらしたことにより、この地で地場産業がすばらしく発展していくこととなり、その功績は誠に大であると思われます。

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