| 明治から現代までの備前焼 | ■伝統の火を死守、繁栄の基礎を 藩の保護規制の無くなった近代になって、備前の地に個人窯が出現し始めました。
しかし明治の殖産興業や海外向け輸出にもシフトしきれず、かといって、土管や衛生陶器に乗り出すほど原料粘土が無尽蔵でもありませんでした。大正から昭和初期にかけても窯業は世界の荒波を受けて振るわず、おまけに日本経済そのものが不況のどん底であえぐようになりました。三村陶景、西村春湖、小西陶古、石井不老、伊勢崎陽山等細工物で頑張る名人もいましたが、焼物に陽は依然当たりませんでした。
それでも日本の焼物の中で、ただ一つ備前焼だけが黎明期から今日まで途絶えることなく歩み続けたのは、恵まれた土や風土のおかげだけではなく、それぞれの時代の中の人々のたゆまぬ努力や、どん底にあってもひたすら伝統の火を死守してきたど根性の結果であることは間違いありません。
しかしそのような中で、大正7年、昭和15年の二度にわたって桃山時代の古備前の、見たこともないような優品がザクザクと、早くから桃山備前にひたすら心寄せる先見的数寄者陶守三思郎氏らの手によって直島沖の海から引き上げられ、各方面に衝撃的反響を巻き起こしました。それらの作品はそれほど素晴らしかったし、それまでの研究成果や伝世品ではあり得ないような器種もたくさん含まれていました。
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