| 備前焼の前身・須恵器のはじまり | ■焼物の新しい時代 縄文式土器、弥生式土器の時代を経て、5世紀頃の日本には、新しい時代が外からやってきました。ロクロの導入、野焼きから一転して、窯の築造とそこからくる、一層の高温を維持する焼成技法などを携えた「須恵器」の到来です。
日本各地に、頑丈で水の漏らない須恵器を焼く窯が渇望されて瞬く間に広がっていきました。この備前の地でも、盛んに焼かれました。邑久郡一帯で焼造された、備前焼の前身の古代の寒風窯の製品は、朝廷に調(税金)として納めるモノであった性格上、ロクロを使い非常に端正で美しく、可能な限り白く、それはまた中国の焼物に出来るだけ近づけようと指向し、努力することから始まった焼物でした。当時価値のある陶磁器とは中国の玉のように美しく、端正なものを指していました。それを持つことは特権階級の者にとって、一つのステイタスシンボルでありました。
その様な中で、東海の雄猿投窯とともに、暗灰色の他のこれまでの須恵器よりはるかに白く、硬く、その上美しい薄緑色の自然釉の衣装をまとったものが生まれ、日本の二大勢力をなしていきました。この一方が、飛鳥〜奈良時代にかけて活躍した寒風窯であり、それに沿った寒風窯は深く深く律令制の中に組み込まれていったのです。これが備前焼のルーツです。
貞観13(871)年『貞観式』にも備前国からの須恵器貢納の記述があらわれています。律令制に深く根ざし、一大生産地となり他に先んじて窯印さえすでに多用して、断然高いレベルと美しさを誇るものでした。出土物からみても、大寺院の鴟尾、大壷など巨大なものも非常に得意とするところでありました。
またこの頃の寒風の作品が、このように大きさと、質の点で群を抜いていたかということは、牛窓町民俗文化資料館、備前長船博物館、山手村の吉備考古館の関係資料を見れば、誰でも往時をしのぶことができ、またその心意気もうなづけるはずです。
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