岡山藩とは藩庁を岡山城とし,備前および備中国の一部を領した外様藩である。寛永9(1632)年,池田光政いけだみつまさが入封し,明治までの間にわたり池田光政の家系が岡山藩を治めた。池田光政(備前国岡山藩主)は,徳川光圀とくがわみつくに(水戸藩主),保科正之ほしなまさゆき(会津藩主)とともに江戸時代初期の三名君さんめいくんとして称されている。
寛永11(1634)年,池田光政は熊沢蕃山くまざわばんざん(陽明学者)を招聘しょうへいし重用ちょうようした。寛永18(1641)年,日本初の藩校「花畠教場」を岡山城下に開校する。慶安4(1651)年,庶民教育施設「花園会」の会約を起草きそうする。このことによって,寛文10(1670)年,岡山藩内に123カ所の日本初の庶民教育施設(手習所てならいじょ)が設置される。そのなかのひとつが後の「閑谷学校しずたにがっこう」(岡山県備前市閑谷おかやまけん びぜんし しずたに)である。
熊沢蕃山くまざわばんざんは津田永忠つだながただとともに要職ようしょくに任ぜられ岡山藩初期の藩政確立を担った。
津田永忠は土木事業にも携わり,治水整備,干拓工事,建築工事などを行った。主な事業に,■閑谷学校の建設,■後楽園の造営(日本三名園,兼六園:金沢市,後楽園:岡山市,偕楽園:水戸市),■曹源寺の造営(岡山藩主池田宗家の菩提寺:岡山県備前市吉永町:国指定史跡),■倉安川吉井水門の水路整備(岡山市吉井:日本最古の運河閘門こうもん)などがある。宝永元(1704)年,65歳にて閑谷に隠居し,閑谷学校経営をはじめ教育に携わる。宝永4(1707)年,病にて68年の生涯を閉じた。
熊沢蕃山は幕府が官学とする朱子学と対立する陽明学者であるため,幕府と藩の反対派の圧力にあい,明暦3(1657)年に岡山藩を去る。元禄4(1691)年,病にて74年の生涯を閉じた。
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