備前市世代ふれあい交流事業
柴田練三郎略伝
東鶴山公民館
練三郎の少年時代
 大正12年4月、柴田(れん)三郎(ざぶろう)は鶴山尋常(じんじょう)小学校に入学する。小学校は瀬戸内海の入江の奥にあった。
鶴山尋常小学校
 始業を報じる板木(ばんぎ)がなりひびく。1時間目は国語だ。教師が黒板に大きな文字でかたかなを書いてゆく。それを実竹(じっちく)の棒の先で一語一語さし示しながら、生徒らに復誦(ふくしょう)させる。

 (れん)三郎(ざぶろう)は小学校1年生にして、小学校で習うくらいの漢字は読み書きできたので、こと国語の時間は退屈(たいくつ)だった。

 幼いころから、(れん)三郎(ざぶろう)は父親が書屋(しょおく)にのこしていった漢籍(かんせき)を眺めるのが好きだった。なんとはなしに、漢文の格調(かくちょう)()かれつつ育っていたのである。

 だからといって、(れん)三郎(ざぶろう)はすこしも勉強はしなかった。いつも、小さな青大将(あおだいしょう)を飼いならして、着物の(そで)に入れているような少年だった。

 (れん)三郎(ざぶろう)は毎日、くたくたになるまで遊んだ。夏は海水浴だった。家の前の県道をたどって行くと海へ出る。(れん)三郎(ざぶろう)は毎夏この道を歩いて、海水浴へ行った。村の母親たちは、子どもらが浜辺で遊ぶことをすこしも心配していなかった。瀬戸内海べりの入江の海は、湖のようで、砂をあらったり岩をたたいたりする波はなかったからだ。(れん)三郎(ざぶろう)は小学校へあがる前から、泳ぎが上手であった。
 
    (れん)三郎(ざぶろう)の小学校時代のいたずらは、みな型破りだった。たとえば――。

 ある日、(となり)村から花嫁が輿入(こしい)れをした。当時の風習として、向こう三軒(さんげん)両隣(りょうどな)りへ、花嫁は挨拶(あいさつ)まわりをしなければならない。あでやかな花嫁(はなよめ)衣裳(いしょう)の姿に、つのかくしの顔をうつ向けて、文字通り虫も殺さぬ、しおらし気な顔で、花嫁(はなよめ)御寮(ごりょう)はしずしずと歩いていた。

 それをじっと見つめていた(れん)三郎(ざぶろう)脳裡(のうり)に、ふと奇抜(きばつ)なアイデアが()く。(れん)三郎(ざぶろう)はすぐちかくにあった竹竿(たけざお)を手にとるや、いきなり背後から、花嫁の裳裾(もすそ)をぱっとはぐり上げたのだ。瞬間、ふり向いて、(れん)三郎(ざぶろう)をにらみ()えた花嫁(はなよめ)御寮(ごりょう)形相(ぎょうそう)は、まさしく華厳経(けごんきょう)()くところの「女人(にょにん)地獄(じごく)の使い」そのものであったという。

 またひとつ。

 (にわとり)が鳥のくせに空も飛べずに、卵ばかりを生んで人間に奉仕しているのが、なんとなく面白くなかった。空を飛べないのなら、せめてアヒルのように泳がせてやろうと考えたのだ。

 (れん)三郎(ざぶろう)隣家(りんか)鶏小屋(にわとりごや)から、5、6羽ぬすみ出して、これをじゅずつなぎにして、海辺までひっぱって行く。そして、小船を()ぎ出して、(にわとり)を海面へはなしたのだ。
(にわとり)たちは()えなくも、のこらず(おぼ)れ死んでしまった。 

    ざっとこんなあんばいである。
腕白(わんぱく)だった(れん)三郎(ざぶろう)は、しばしば母親から(きゅう)をすえられた。教師にも(なぐ)られた。その腕白(わんぱく)ぶりに、各戸から猛烈(もうれつ)抗議(こうぎ)を受けることもあった。そのたびに、母親はあやまりにまわらなければならなかった。

 母松重(まつえ)は、もはや自分にはお前のような悪童(あくどう)を育てる気力が()きたと、(なみだ)ながらにかきくどいた。学校の勉強などどうでもいいから、いたずらをやめてもらいたい、とひたすら(れん)三郎(ざぶろう)(いさ)めるのだった。

柴田(れん)三郎(ざぶろう)は、みずからこう()らす。「自分は、故郷の岡山の海辺の村はじまって以来の腕白(わんぱく)小僧(こぞう)であった」と。

 たしかに(れん)三郎(ざぶろう)のいたずらは、度がすぎていた。母親がやりきれなかったのもわかる。だが、そのいたずらは、自分なりに意義をもっていたのである。

 (れん)三郎(ざぶろう)探究心(たんきゅうしん)旺盛(おうせい)な少年だった。()に落ちぬことには、がまんがならなかった。疑問をいだけば徹底的(てっていてき)納得(なっとく)のいくまでやってみたかった。ただ、2歳上の次兄(じけい)大史郎(だいしろう)が、学術優秀、操行甲(そうこうこう)模範生(もはんせい)であっただけに、(れん)三郎(ざぶろう)の行動は悪童(あくどう)典型(てんけい)として大人たちの目に映ったのである。

 松重(まつえ)はごく平凡(へいぼん)な、何処(どこ)にでもいるような女性であったのだろう。すくなくとも、息子の行動に対して、お節介(せっかい)をやいたり口をさしはさむ現代の教育ママ的存在ではなかったはずだ。だが、残念なことに、松重(まつえ)(れん)三郎(ざぶろう)の直木賞受賞を知らない。受賞する半年前の昭和26年に鬼籍(きせき)に入っている。

 忙しかった母松重に代わって、(れん)三郎(ざぶろう)面倒(めんどう)をみてくれたのは祖母であった。備前(はん)武家(ぶけ)の娘として育った祖母は、何事においても(つつ)ましかった。祖母は、3人兄弟中、もっとも(れん)三郎(ざぶろう)可愛(かわい)がった。父親を早くに亡くし、母親は忙しかったから、ことさら(れん)三郎(ざぶろう)(あわ)れんでいたのかも知れない。(あわ)れみは深い愛情にかわる。末っ子を溺愛(できあい)する祖母。(れん)三郎(ざぶろう)も祖母には甘えた。けれども、その甘え方には、お(ばあ)ちゃん子にみられる軟弱(なんじゃく)さはない。

 (れん)三郎(ざぶろう)が小学生のころだ。
 小遣(こづか)いが足りなくなれば、(れん)三郎(ざぶろう)は祖母を(たの)みとする。(たの)みとしても、ただ、くれとは言わない。まことしやかな理由をつけて小遣(こづか)いをせしめる。だが、毎度同じ(うそ)はつかない。話はだんだん巧妙(こうみょう)になってくる。
祖母は(うそ)看破(かんぱ)していた。それでいながら一度もたしなめたことはなかった。いかにも、(れん)三郎(ざぶろう)のつく嘘を、本当のことのように笑顔できいていた。祖母はだまされたふりをして、いつも小遣いをあたえていたのだ。
 
 集英社刊 澤辺成徳著「無頼の河は清冽なり」より


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