備前市世代ふれあい交流事業
柴田練三郎略伝
東鶴山公民館
練三郎の生い立ち
 (しば)田家( たけ)(れん)三郎(ざぶろう) 祖父(そふ)( だい)から、備前地方の典型的な 中地主(ちゅうじぬし)であった。父柴田知太( ともた)婿養子(むこようし)だった。 長女(ちょうじょ)松重(まつえ)結婚(けっこん)して中地主( ちゅうじぬし)の家を()いだのである。同時に、 知太(ともた)鏑木(かぶらぎ) 清方(きよかた)同門(どうもん)日本(にほん)画家(がか) でもあった。しかし、柴田知太(ともた)早世(そうせい)した。(れん) 三郎(ざぶろう)が3歳の時に( )くなっている。だから父親の面影(おもかげ)(しの)ぶこともなく育ったことになる。父親については唯一( ゆいいつ)こう(しる)しているだけである。

 私の亡父(ぼうふ)は、無名( むめい)日本(にほん) 画家(がか)で、多芸多能であったが、ひとつとして( )らずに、終わった。ただ若干(じゃっかん)漢籍(かんせき)書屋(しょおく)に、 若干(じゃっかん)資質(ししつ)(せがれ)()にのこして行った。

 (『眠狂四郎(ねむりきょうしろう)無頼( ぶらい)(ひかえ) 百話(ひゃくわ)下巻(げかん)覚書(おぼえがき)、昭34.8新潮社刊(しんちょうしゃかん)


 柴田知太(ともた)はしょせん趣味人(しゅみじん) にすぎなかったのだろうか。ちがうとおもう。かれが描いた1枚の絵を()るかぎり、趣味( しゅみ)(いき)はこえている。ただ、 中央(ちゅうおう)画壇(がだん) から遠くはなれた岡山の田舎(いなか)画筆( がひつ)だけをふるうことは、むつかしいことであっただろう。いや、むつかしいというより、柴田 知太(ともた)は日本画家として大成( たいせい)すること以上に、家長(かちょう)としての 責任(せきにん)を重んじる常識人 (じょうしきじん)だったとおもう。(れん)三郎(ざぶろう)()の中には、そんな父親の芸術( げいじゅつ)志向(しこう)する資質(ししつ)もさることながら、律儀(りちぎ)(めん)ものこされていたのである。

 (れん)三郎(ざぶろう) には2人の兄がいた。長兄(ちょうけい)柴田劒(しばたけん)太郎(たろう)は、(れん)三郎(ざぶろう)よりひとまわり上だった。昭和4年、(けん)太郎(たろう)大学卒業後(そつぎょうご)朝日(あさひ)新聞社(しんぶんしゃ)入社(にゅうしゃ)した。(れん)三郎(ざぶろう)が中学校へ入学した時である。

父親を早く亡くした(れん)三郎(ざぶろう)にとって(れん)長兄(ちょうけい)(けん)太郎(たろう)は兄というより親父みたいな(けむ)たい存在(そんざい)だった。(れん)三郎(ざぶろう)はよく小言(こごと)を言われた。

 柴田劒(しばたけん)太郎(たろう)は大学生のころから文章を()くした。朝日(あさひ)新聞社(しんぶんしゃ)入社後(にゅうしゃご)、記者時代を()て、整理部(せいりぶ)次長(じちょう)写真(しゃしん)部長(ぶちょう)福岡(ふくおか)総局長(そうきょくちょう)論説(ろんせつ)委員(いいん)歴任(れきにん)したが、仕事の(かたわ)小説(しょうせつ)随筆(ずいひつ)を書き、数冊(すうさつ)著作(ちょさく)がある。
 
 集英社刊 澤辺成徳著「無頼の河は清冽なり」より


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