備前市世代ふれあい交流事業
文政5(1822)年2月に陶崖は、医師としての代表的(だいひょうてき)著作(ちょさく)となった『日本(にほん)醫蘓(いそ)』の上巻(じょうかん)を著しました。「醫蘓」は現在(げんざい)漢字(かんじ)では「医蘇(いそ)」となり、「医術(いじゅつ)が正しく(よみがえ)る」という意味(いみ)と思われ、この後、中巻(ちゅうかん)下巻(げかん)も著されました。解読(かいどく)できていない部分(ぶぶん)もありますが、この本には腹候の会得(えとく)や蘭方の研究について書かれています。陶崖は(とく)に蘭方の書物にある「粘液(ねんえき)」に注目(ちゅうもく)し、この本の中で応用(おうよう)展開(てんかい)しています。その(せつ)とは「疾病(しっぺい)体液(たいえき)渋滞(じゅうたい)して粘液となり水垢(みずあか)のごとく幾万(いくまん)小虫(しょうちゅう)(しょう)じて発病(はつびょう)するものであり、治療法は1(やく)(ほう)である」という「粘液主論(しゅろん)」で、彼は、現代(げんだい)(こう)コレステロール・高脂血症(こうしけつしょう)などの成人病(せいじんびょう)になる原因(げんいん)の病気をすでに認識(にんしき)しており、「幾万の小虫」についても、ウイルスなどの病原菌(びょうげんきん)存在(そんざい)漠然(ばくぜん)とではあるが認識していたのかもしれません。しかしながらこの(せつ)は、当時の医師の(あいだ)では()()れられなかったようです。 この年の6月、伯父信易が亡くなりました。76歳でした。
 陶崖は、医学や芸術の研究だけでなく、当時(とうじ)(まず)しくて生活(せいかつ)(こま)る人が(おお)かった農村(のうそん)経済(けいざい)(ゆた)かにする方法も考えていて、それを文政7(1824)年から文政8(1825)年にかけて『経済(ろく)(かん)御代(みよ)(うるお)()) ひ (つる)(かめ)(まつ)(たけ)(まき))』という本にして著しました。その内容(ないよう)としては、国中(くにじゅう)の人が(つき)に6日()なべをして、草履(ぞうり)草鞋(わらじ)などを作り、一人あたり銭2文を(かせ)ぎ、その2文を()かして国中の村の経済を再興(さいこう)する計画(けいかく)旭川(あさひがわ)洪水(こうずい)の原因となる土砂(どしゃ)堆積(たいせき)(ふせ)ぐ方法、葬式(そうしき)における費用(ひよう)削減(さくげん)などの経済(さく)が書かれています。 また、当時、生活の(くる)しさから、(さか)んに行われていた堕胎(だたい)自然(しぜん)に生まれる前に子を排出(はいしゅつ)させて(ころ)すこと)・間引(まび)き(生まれた子を殺すこと)・()()という(わる)習慣(しゅうかん)に、陶崖は(つよ)(いか)りを(かん)じていて、文政9(1826)年に『堕胎訓戒(くんかい)(御代の潤(澤)ひ (くさ)(みど)り子)』、天保(てんぽう)3(1832)年に『堕胎訓戒(御代の潤(澤)ひ 子もり(うた))』の2巻を著し、各地の間引きなどの実例(じつれい)()げ、親子(おやこ)愛情(あいじょう)子供(こども)(たから)であることを()き、人命(じんめい)(かろ)んずることを(いまし)めて、成長(せいちょう)した子供(こども)が家の経済を潤すであろうと()いています。
 文政10(1827)年8月、絲は自宅(じたく)(よこ)不老川(ふろうがわ)()かる不老(ばし)東詰(ひがしづ)めに、石地蔵(いしじぞう)建立(こんりゅう)しました。それは今もそこに残っています。
 文政12(1829)年2月に片上(かたかみ)正宗(まさむね)雅敦(まさあつ)という人が主催(しゅさい)した書画(しょが)展観会(てんかんかい)があり、陶崖と恂太郎は親子で出品(しゅっぴん)しました。この時恂太郎は得意(とくい)の竹の墨絵(すみえ)を出品していますが、まだ11歳でした。
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