備前市世代ふれあい交流事業
  文化13(1816)年の(なつ)頃、31歳のとき陶崖は結婚(けっこん)したようです。相手(あいて)津高郡(つだかぐん)金川村(かながわむら)(今の御津(みつ)郡御津町(ぐんみつちょう)金川(かながわ))の商家野々口屋元次郎の(いもうと)於勝(おかつ)という人でした。野々口屋は、佐藤家の薬を販売していた店の一つです( )
 その年の10月頃には陶崖は大阪(おおさか)で医師として開業し、翌文化14(1817)年には京焼(きょうやき)楽焼(らくやき)などの窯場(かまば)を訪ねるなどして、釉薬(うわぐすり)陶磁器(とうじき)表面(ひょうめん)にかけて装飾(そうしょく)水分(すいぶん)吸収(きゅうしゅう)(ふせ)ぐために(もち)いる)の研究(けんきゅう)をしたりしていましたが、3月に伯父が再び病気になったため、伊部に帰りました。
 そして4月に長男(ちょうなん)(じゅん)太郎(たろう)信恂((のち)に号を陶亭(とうてい)とする)が生まれましたが、その母親(おや)である於勝とはその()離婚(りこん)してしまったようです。
 文政(ぶんせい)元(1818)年の4月頃から約4か月間、陶崖は四国を旅して各地で溜飲(りゅういん)()具合(ぐあい)(わる)く、飲食物(いんしょくぶつ)が胃の(なか)にたまり、すっぱい(えき)()症状(しょうじょう))、労咳(ろうがい)(はい)結核(けっかく))の治療(ちりょう)(おこな)いました。
 文政2(1819)年、その13年前に岡山藩医(はんい)の山内五達という人が(あらわ)して、原稿(げんこう)を陶崖に預けていた『備前(びぜん)(しゅう)伊部(いんべ)陶器(とうき)(こう)』を、陶崖が(すこ)()(なお)し、(なが)部分(ぶぶん)省略(しょうりゃく)するなどして、『(すが)むし()』と(だい)(めい)を付けて刊行(かんこう)印刷(いんさつ)して()()すこと)しました。これは備前焼についてその発祥(はっしょう)由来(ゆらい)特徴(とくちょう)などを紹介(しょうかい)するパンフレットのようなもので、備前焼では最初(さいしょ)のものと()われています。この表紙(ひょうし)のデザインも陶崖が手がけていますが、非常に面白い構図(こうず)になっています。
 文政4(1821)年、陶崖は36歳のときに根岸(ねぎし)(いと)という21歳の女性(じょせい)再婚(さいこん)します。この絲は、その前に備前(はん)家老(かろう)の土倉市正(いちまさ)という人との間に二人(ふたり)()()んでいて、その二人はのちに備前藩筆頭(ひっとう)家老伊木家(いぎけ)当主(とうしゅ)となる伊木忠正(ただまさ)と伊木忠澄(ただすみ)でした。つまり絲は備前藩家老の(じつ)の母で、市正が29歳で亡くなったため、陶崖と結婚しました。藩からの(すす)めに従うかたちでの結婚であったようです。このことからも陶崖の名がすでに藩内でも有名(ゆうめい)になっており、社会的(しゃかいてき)地位(ちい)も高かったということがわかります( ) 
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