備前市世代ふれあい交流事業
閑谷学校ゆかりの人々
伊里公民館
主な人々


* 熊澤蕃山(くまざわばんざん)(1619〜1691)

1.人格ならぶ者なし
 熊澤蕃山は、江戸時代に「人格、識見(しっけん)は当代にならぶものなし」といわれたほどの優れた経世家(けいせいか)であり、その政治的手腕(しゅわん)幕閣(ばっかく)諸大名(しょだいみょう)、学者、政治家など多くの人々が認めている。光政を補佐し民政を心がけ、教育をすすめて備前藩の基礎を築いた。

2.熊澤蕃山の略歴(りゃくれき)
 元和(げんな)5年 京都五条(ごじょう)稲荷(いなり)に生まれる。父 野尻(のじり)一利(かずとし)。8歳で母方の熊澤氏を受け継ぐ。

 16歳で、池田光政公に仕えたが20歳のとき()め、近江(おうみ)(滋賀県)に移り住む。

 23歳で、中江藤(なかえとう)(じゅ)に入門して陽明学(ようめいがく)(おさ)める。

 27歳で、再び備前藩に仕え、32歳で、番頭(ばんかしら)になり鉄砲(てっぽう)組頭(くみがしら)知行(ちぎょう)千石(ぜんこく)

 38歳で、狩猟(しゅりょう)中に負傷(ふしょう)し、39歳で、退職し寺口(てらくち)(むら)隠棲(いんせい)

 その後、幕府に(にら)まれ、京都・吉野山(よしのやま)鹿()背山(せやま)明石(あかし)郡山(こおりやま)など各地を移住。

 73歳 古河(こが)(茨城県)で(ぼっ)し、総和町(そうわちょう)(けい)延寺(えんじ)埋葬(まいそう)される。

3.蕃山(しげやま)隠棲(いんせい)
 木谷(きだに)で狩猟中に負傷したため、武士としての勤めができなくなり、隠居を願い出て主君光政の三男政倫(まさとも)養嗣子(ようしし)にして跡目(あとめ)をゆずり、領地である寺口村に移り住む。寺口村を(しげ)山村(やまむら)(備前市蕃山)と(あらた)め、自分の姓名も蕃山(しげやま)了介(りょうかい)(しょう)した。

 ◆蕃山村と名付けた理由について
新古今集(しんこきんしゅう)の中にある源重之(みなもとしげゆき)の歌

筑波山(つくばやま)はやましげやましげけれど、思ひ入るにはさはらざりけり」

から取ったといわれ、治山(ちさん)治水(ちすい)心掛(こころが)ける蕃山の心境を表すものとされている。



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